死に至る病

ユーモアの喪失は、死に至る病である。個人がそれまでの人生で育んできた人格を、死に至らしめる病である。自分は、その病に侵されつつある。楽しいこと、嬉しいこと、悲しいこと、初めて知ったり体験したりしたこと・・・そういったありふれた日常の出来事に心を揺さぶられたときに、自分というフィルターを通して感じとった世界を、生き生きとした姿でほかの誰かに伝えようとする、人間の本来的な社会性。それこそがユーモアなのであるが、今の自分には、「自分の世界を他者に伝えられるように工夫する努力」がほとんど出来なくなってしまった。言葉も、声も、表情も、ユーモアを失っている。会話は、事務的で、暗くて、つまらないどころか、最低限の意図すら明確に伝わっていないおそれすらあるほどだ。友人や職場の同僚との会話で、自分自身のそうした姿に気付いて、ぞっとした。こんなのは、自分本来の姿ではない。表面的には声が小さくて真面目で大人しそうであっても、心の中では些細なことにときめく感性と、少年のような遊び心を常に持っているというのが、ありのままの自分だと思ってきた。だが、ユーモアの危機に瀕している今の自分には、自分から見た「自分らしさ」を感じることが難しくなっている。


死に至る病の原因は、主に2つあると考えている。1つ目は、日常的な忙しさによる時間のゆとりの減少。人と話したり、娯楽や文化等に触れてじっくり考えたりすることが難しくなり、心が硬直化した。2つ目は、自分の仕事に対する健全な自信の喪失。今の部署の仕事になかなかなじめず、組織に貢献できていないという申し訳なさや無力感に苛まれているため、人生の半分を占める社会人としての役割が大きく揺らぎ、人格にも激震が走っている。そもそも前者は仕事がうまくいっていない影響によるものなので、根本的な原因は後者にあると言える。仕事上の無力感、いや無能感が、自分の気持ちを後ろ向きにし、ユーモアをも失わせる結果に繋がっているのだ。事務組織で働いている以上、自分で仕事は選べない。資格職以外の全ての職員はいつでも代わりの利く駒であり、どの仕事も役職が同じ人間なら誰でも出来るように設定されている。だから、与えられた担当業務に「向いていない」なんてのは絶対の禁句であり、そんなことを軽はずみに言おうものなら、以降の人事配置において希望を叶えられることなどなくなるのは自明の理である。だから、向いていない、なじめないと、どんなに強く感じたとしても、真っ向から向き合い戦うほかに道はない。自分の無能さとひたすら向き合わされるのは辛いことだが、だからといってそれで鬱になってしまうということもない。仕事に打ち込めていないから、責任感に押しつぶされるほど自分を追い込むことはありえない。ただ、それでもユーモアは確実に失われていく。「生き生きとした自分」の姿は、霧の中に吸い込まれるかのように薄らいでいく。「好きになれない仕事、自分の能力を発揮できない仕事に忙しい」ことが、死に至る病の原因なのだ。


「会社による安定か、会社からの自由か」とはよく聞く言葉だ。日本社会で「脱サラ」が、フリーターやノマドなどと呼び名を変えつつ何度となく脚光を浴びてきたのは、おそらく自分と同じような危機感に襲われる人が少なくないからなのだろう。「安定があってこその自由」だとこれまで自分は信じてきたが、これまで保たれていた心の自由は、今や大きく揺らいでいる。脱サラした友人も、もしかしたら、こんなことを感じていたのかな・・・と、人ごとながら、ふとしみじみと考えたのだった。

(90分)