寝落ちは打首獄門

誤解を恐れずにあえて極論すれば、家の外はこの世、家の中はあの世である。なぜなら、社会通念上の一般的な感覚や情状酌量が一切適用されない超法規的な断罪が行われる地獄が家の中には待ち受けており、時として死よりも重く苦しいほどの残酷な刑罰を課されるからである。

 

例えば、家における最も重い罪の一つとして、子供の寝かし付けにおける「寝落ち」が挙げられる。寝かし付けでは、最初こそ自分と妻の両方が子供と一緒に寝室でベッドに寝転がるが、子供がうとうとしてきた段階で、妻はテレビを見るためリビングに戻る。このあと、子供が完全に寝たのを確認して退室、一定時間経過後に子供を抱きかかえて子供用のベッドに移動させるまでが自分の仕事である。リビングに戻ってからは、今度は肩もみや耳かきなどの妻の寝かし付けミッションに専念することが求められる。ただ、家があの世であることを忘れて油断すると、うっかり子供の寝かし付けの途中でそのまま寝てしまうことがある。この寝落ちが大体21時50分を過ぎて継続すると、地獄の門が開き、身の凍るような恐怖が襲いかかってくる。その幕開けを告げるのは、眠りをかき消す大きな物音である。ドアが勢いよく閉まる音、物が投げつけられる音、罵声、皿が割れる音などだ。この物音に気付いて目が覚め、慌ててリビングに駆け付けたときには、時すでに遅し。一審かつ結審の裁判所で、被告不在のまま自分の死刑判決は確定されてしまっている。取り返しの付かない事態を招いたことを痛感したところでもう全ては後の祭りだ。般若と化した妻から浴びせられる怒涛のごとき罵倒で、自分の精神は完膚なきまでに粉砕されることになる。その人格攻撃の苛烈さは筆舌に尽くし難いが、判決の主文としては、「子供より先に寝ることに神経を疑う。どんだけ能天気で単純なのか。子供より幼稚なのではないか。」という主張と、「何回同じことを繰り返すのだ。毎度これだけ怒られても全く反省、改善する気がないのか。」という主張の2つに集約することができる。謝っても、弁解しても判決は覆らない。まして「怒るまで待つ前に、一言呼びにくればいいだろ」などと反論などしようものなら、火に油を注ぐどころか爆弾に火炎放射のごとき大爆発を招くことになる。21時30分に鳴るアラームをかけて対策していても、自ら止めたり、気づかなかったりすることがあり、寝落ちを完全に防ぐことは困難だ。寝転がらずにベッドサイドに腰掛けるだけに留めたり、立ち上がってみたりしながら、疲労でパワーアップした睡魔との間で毎回ラスボス戦のごとき激しい攻防を繰り広げてはいる。しかし一旦寝落ちしてしまえば、その結果が全てであり、寝落ち防止の努力といったプロセスなどはもはや関係ない。最終的に寝室の枕と布団を部屋の外に投げつけられ、自分は心神喪失状態で立ち尽くすことになる。これにより被るダメージは、この世の日常におけるあらゆる悲劇や災難よりも遥かに重い。日常に生じる出来事にも関わらず、度合いが次元を3つくらい超えている。冗談ではなく、自分の死よりも辛いとさえ感じる。それゆえ、家の中はあの世、なのである。

 

寝落ちによる打首獄門のような刑罰は、妻が機嫌のよい平和なときほどむしろ起こりやすい。原因は、平和だと「妻を寝かし付けるまでが仕事」という大前提を失念して、日中の勤務に精を出して体力を使い果たすとともに、帰宅後に必要な緊張を解いてしまうためである。どんなに機嫌がよくても、寝落ちのような失態が看過されることは絶対にありえない。なぜなら、妻の採点基準において、自分の努力による加点は数点だが、ミスによる減点は数百万点に達するからだ。加点が数十点貯まったところで、わずかな手違いがあれば一発アウト。ジェットコースターのごとく即座に奈落の底に突き落とされる。機嫌のよいときほど、油断は起こりやすいし、その急変により自分が受けるショックも大きくなる。だから、家にいるときは常に危機に備え、決してリラックスすることなく、緊張感を持ち続けるようにしなくてはならない。そのため、日中の仕事での体力消耗をどうにか抑制しなければならないのだが、しかし高度な集中なくして毎日残業無しで仕事をこなすのは難しく、一方で早く帰るために集中力を使うと体力を消耗してしまうという矛盾があり、今のところ根本的な解決策は見つかっていない。要するに体力が持たないのだ。これが、自分が何度となく打首に処されてしまう構造的な要因となっている。

 

こうした構造的な問題に対して、家はあの世、という精神論で緊張感の保持を目指すのは、場当たり的な対応でしかない。根本的な解決策としては仕事の大幅な負担軽減を実現するほかないが、それは到底現実的ではない。いつか、家で心からリラックスできる日は訪れるのだろうか。今はまだ、夢のような話である。

youtu.be

(120分)