待てば海路の日和あり

仕事と家事育児にただただ追われる毎日。子供と妻が寝たあと、23時頃になってようやくひとりの時間が訪れて一息つくものの、疲れ果ててコタツに入ったまま寝落ちするのがもはやデファクトスタンダードになった感がある。夜中に目が覚めてようやくベッドに入るも、仕事の夢を見たり、子供が泣いたりと波乱があり、熟睡できない上になかなか夜が明けない。きちんと眠れていないものだから、早起きするのも難儀で、朝は6時起床が関の山。結局、勉強も趣味も、スマホやPCでのネットサーフィンすらできずに次の日を迎える。そんなふうに一日一日を「やり過ごす」ような日々が、コロナ禍もなんのそのの順調さで、延々と続いている。時間感覚が麻痺してきて、自分の年齢や今年の西暦も、少し考えないと思い出せないような有り様だ。

 

自分の意志を二の次、三の次にして、マシーンのごときストイックさで自分の会社員及び父親としての役割に徹する日々。その繰り返しが、かつては確固として存在していたはずの自分の輪郭を、鉛筆書きの線を消しゴムでこするように段々と曖昧にしていく。自分は何者なのか、自分がしたいことは何なのか、そんなものがそもそもあったのか、よくわからなくなってくる。そうしてしばしば胸に去来するのは、無力感と無気力感だ。何もできていないし、何をしようという活力も湧いてこない。そんな人間として枯れた状態になりかけているような気がして、薄ら寒い気持ちに襲われる。

 

そんな自分のガラスのアイデンティティーを、落下して砕ける寸前で受け止めてくれるのは、過去の記憶である。友人との思い出、旅をした経験、趣味を通じて拡がった世界、これまでの人生で出会った素晴らしい映像・音楽・文学作品など、過去の自分が足で稼ぎ積み上げてきた財産が光を放ち、自分の足跡を照らし出すことで、自分という人間が確かに存在することを再認識させてくれる。それでどうにか自分を取り戻すことができている。だから、今の自分の最大の恩人は、過去の自分自身だと言えるし、過去の肯定はすなわち、その結果としての今の自分の肯定にもつながっていくことになる。

 

だから、独身社会人時代に色んなことにお金と時間を使うことは大事なことなのだと、できることなら弟に説教してやりたいものだ。ただ実家暮らしの弟とは年に数回しか言葉を交わさないし、ましてや意味や目的を持った会話など一切しないから、その機会が訪れることはない。男兄弟なんてのは、大概そんなものだろう。今は過去の自分の力を借りて次の飛躍に備える、雌伏の時。待てば海路の日和あり、なのだ。そう固く信じて、たとえ足踏みをしていると感じても、視線は前に、遥か水平線の彼方に向けていたいと思う。

 

(60分)