Identity

就職活動のときに、誰しも自己分析というのをやるように言われるわけだが、自分はこれが大の苦手であり、率直に言って嫌いであった。大学時代のどうしようもなく自堕落で、独善的で、まるで成長していない自分の姿を見るにつけ、自己嫌悪に陥り、思考がネガティブなほうへネガティブなほうへと落ち込んで行って、最終的には思考停止してしまう有り様であった。そのため、「これが自分だ!」というような具体的な自分像を発見、あるいは確立することなしに、自分が何をしたいのかよく分からないあやふやな状態のまま就活をすることになり、これが就活の長期化につながってしまう原因となった。そのため「自分が何をしたいかなんて一度働いてみないことには分からん!」という考えを持つに至り、自己理解の底の浅さをカバーするため、開き直って面接で明るい好青年風に振る舞ったことで、最終的に今の勤め先から内定をもらうことができた。しかし、ついぞ自分のことを明確に理解しないまま、今に至っている。


まあ今となっては、就活の一環としての自己分析は、多分に偏った方向性を持った思考的作業なので、そこで下手に抽象的で出来過ぎた自分像を「でっちあげて」それにとらわれてしまうよりは、あいまいで終わらせられるほうがマシだったのではないかとも思うのだが、自分が何が好きで、何のためなら情熱を燃やせて、何を目標に生きているのか、そういうことを考えずに生きて行くのはやっぱり無理だと近頃感じるようになった。就職してからは、「お前は何者だ」と強烈に自己認識を問われるような機会がなくなってしまって、それはとても楽ではあったのだが、いつまでもそんなことをしていては、自分を自分たらしめるべきものである、自分の中の自分のイメージが虚ろになって、アイデンティティが失われてしまうのではないかという危機感が芽生えたのである。あれよあれよという間に時間が過ぎて行く毎日の中で、自分を見失わずに生きて行くためには、アイデンティティを持っていなければならない。


自分のことを考えないと、自分を形作ってきた過去の出来事や知識や感情の起伏はどんどん忘れ去られていく。後ろを顧みることなく漫然と前を見ていると、山あり谷ありでときにはドラマもあったはずの過去は、どんどん更地に均されていってしまう。現に、自分と向き合わなかったこの1年ほどの間に、自分の中で過去のことがずい分忘れ去られてしまった。過去の自分と今の自分との「地続き感」に、大きな亀裂が生じてしまった。その亀裂を埋めるための手掛かりとなるのが、自分がこれまで書き残してきた膨大な記録・文章である。それらから見えてくる当時の自分の姿を、今の自分と重ね合わせてみることで、時が経っても変わらない色々な共通点が浮き上がってくるし、自分が忘れかけていた自分にとって「大切なもの」が明らかになってもくる。例えば、中学3年生のときの記録に、「好きな映画:ショーシャンクの空に」と書かれているのを見つけて、「この映画は今も好きだが、初めてみた時の自分にはきっととてつもない衝撃と感動に胸が震えたのだろうし、人格形成や人生観にも大きな影響を与えたんだろうな。当時から好きってことは、自分の好きな映画ベスト5に入れてもいいんじゃないか」と思ったり、高校時代の記録に「1日1時間ゲームが出来れば自分は幸せだ」という言葉があるのを見て、今の自分がゲームのない毎日を送っていることが当時の自分の望んだ未来としてはいかなものか、自分の人生の諸場面においてゲームがいかに大きな役割を果たしてきたかを忘れているのではないかと反省したり。過去の記録は、今の自分に数多くの気付きを与えてくれるし、「そういえば、こんなこともあったな、こんな自分もいたんだな」と前向きな気持ちを抱かせてくれるものだ。過去は無駄ではなかったのだと、自分に自信が沸いてくることも多い。そういう意味で、今の自分にとっては、過去と向き合い、そこから得られたものを元に、今の自分と向き合うことは、未来志向の行為であると言える。就活における自己分析と違い、今すぐの利害に結び付かない自由で自発的な行為であるがゆえに、どうしようもなく思えた過去にも、別の視点からの前向きな捉え方が可能になってくる。それが面白いところだ。


過去の延長線上にある存在として自分を捉えることで、自分の理解がすっきりしたものになり、自分について自信を持って語れるようになり、このブログができる前からの座右の銘である「首尾一貫」という行動・思考指針が、より迷いや揺らぎのない形で姿を現すのではないかと期待している。過去から今まで変わらない、一本筋の通った人間でありたい・・・。つくづく、そう願ってやまない。

(115分)