ポンチ絵(プレゼン資料)作成時の工夫

業務で「ポンチ絵」(大学・行政で使われる業界用語で、一般にいう「プレゼン資料」「概念図」のこと)の作成を求められたときに、自分が工夫していることを以下にまとめてみました。

 

(1)概念図の動きが下から上、左から右に流れるように配置する
「下から上」は組織の構造・階層と一致するように、「左から右」は人間の視線の動きと時系列が一致して、ぱっと見の印象で違和感が生じないように「人間工学」的に配慮するもの。ポンチ絵は、一度作成した後は図だけが一人歩きすることも多く、予想外に様々な人の目に触れることもありうる。そのため、作成者による具体的な説明がなくても、図だけで、できるだけ正しく伝わるように、かつ一目見ただけでも概要が分かるようにすることが望ましい。人間の行動の性質を踏まえた構成とすることで、理解までの所要時間の「時短」につながるのではないかと考えた。

 

(2)同じグループごとに図形の形状を統一する
(3)図形の使用を必要最低限に抑える
(4)空白スペースをあえて埋めないようにする
パワーポイントでは図形やイラスト等の追加・加工が簡単にできるので、ついついそれらをたくさん盛り込みたくなるし、空白スペースがあればそこに何か配置したくなりがちである。だが、それらがポンチ絵の「最も伝えたいこと」にあまり関係がない場合は、いたずらに読み手の視線と時間を奪うだけで、かえって理解の妨げになりかねない。そのため、図形等は本当に必要な意味のあるものに限って使用し、かつ同じ意味の記号(矢印、クラウド上のドライブ、組織、補足説明の吹き出し等)は形状を統一し、グループ化することで、理解に要する時間を短縮できるように工夫した。また、作成後に残った空白スペースにはあえて図形等は配置せず、文字を含めた情報量を必要最低限にするように注意した。

 

(5)配色はあえて「カラフルにしない」ように気をつける
ポンチ絵においては、読み手の正しい理解の助けとなるよう、色の使い分けにも「意味」を持たせる必要がある。同じ役割・機能のグループなら同じ色に統一し、全く異なる二者を説明するなら、黒と白、赤と青のように対照的な配置にするといった工夫をすると、配色を効果的に活用することができる。また、配色による意味づけは、その説明なしに理解されるように、極力シンプルなものにする必要がある。したがって、あまりにも多くの色を使用すると、一見、視覚的な見栄えはよくなるかもしれないが、色を使った「意味付け」は困難になる。ポンチ絵の理解には寄与せず、読み手の注意散漫を招くだけになる可能性が高い。さらに、ポンチ絵がモノクロ印刷された場合のことも考慮して配色を工夫すること(モノクロでも区別がつく対照色を選ぶ、背景の塗りつぶしは文字が見えづらくなるので避けるか薄い色にする等)も有効である。


(2019/7/17昼活「ポンチ絵バトル!」作成資料より転載)

 

在宅勤務について考える

(※本記事は2020/4/25時点で作成したものです。)

勤務時間として正式に認められた在宅勤務としては、私自身はまだ実施していません。ただ、これまで自主的な休日出勤や、非公式な持ち帰り残業を長年に渡り重ねてきた経験を基に、在宅勤務に対する考え方や、在宅で能率を高めるための工夫、そして今後個人に突きつけられることになるであろう課題について、思うことをまとめてみたいと思います。

 

<在宅勤務に対する考え方>
1)「接触8割減」で学生、教職員、家族等の命を守るという目的が最優先
何より大事な命を守るために、在宅勤務で接触を減らすことは必須の行動。どうにかして出来るだけ出勤できるようにしようとか、人員減は5割で十分とかいった考えはこの至上命令を履き違えている。「接触8割減」という大前提を徹底し、実現できるようにした上で、では現実としてどうやって仕事をするかということを次に考えるべき。

2)「在宅では無理」と思考停止せず、「どうやったらできるか」を考える
家で仕事をするのは無理、家にいる時間は休みと同じようなもの、と語る人が多いが、それは思考停止であり、ある意味職務放棄ではないか。在宅勤務を命じられた以上は、何とかして家で仕事をするための方法や工夫を全力で考えるのが職業人としての務めであろう。

3)コロナ禍の収束後も見据えて、「働き方改革」を進める好機にする
仕事のやり方を根本的に見直し、生産性を高めるための工夫・改善を進めるチャンスと捉えて、この逆境に前向きに立ち向かうことが大切。また、改善した働き方を、新型コロナ対応としての緊急的・一時的な措置として終わらせることなく、その後も継続・発展させていくことで、残業ありきの硬直化した組織風土に風穴を開けることが必要。

 

<在宅勤務のための工夫>
1)「在宅で可能」なことと「出勤でしかできない」ことの区別を明確にする
在宅で仕事をする際の最大の障害は、作業途中で「出勤しないとできない」工程にぶち当たったときに、そこで仕事が中断してしまうこと。これに伴う時間的ロスや能率ダウンを回避することが不可欠。そのためには、PCを持ち帰れば在宅で可能な作業と、紙資料の参照や業務システムの使用、対面等を伴う職場でしかできない作業を明確に区別し、後者の工程を予め切り離しておくことが必要。自宅でできない作業はスキップし、出勤時にまとめてやれば時間のロスも防げる。また、紙資料も普段からこまめにPDF化し業務フォルダに保存しておけば、いざというときに持ち帰りが容易になる。

2)その日に取り組む業務のゴールを決め、目標時間を定めてから仕事に着手する
職場に来てから、さて今日は何をやるかと考えるスタイルだと、できること、使えるものに種々の制約がある在宅での仕事は捗らない。制約の中で仕事を進めるには、前日までにその日の「業務リスト」を作って、在宅でできる作業だけを家に持ち帰ることが必要になる。また、周囲の目がない環境での仕事は集中力が散漫になりがちなので、どこまでやるかというゴールを決め、さらに目標時間を設定することで、時間を意識し集中するように自分を追い込む仕掛け作りも必要となる。

3)上司との間やチーム内での情報共有、報連相をこまめに、積極的に行う
同僚の顔が見えない状況で仕事をすると、普段なら周りからの質問や指摘で気づく問題等が発見されないまま先に進んでしまったり、上司の考えと違うやり方で先まで進めてしまい、完成寸前まで行ってしまった後で修正を求められる「手戻り」が生じたりするリスクが高まる。そのため、メールやチャットツールを使う等して、普段以上にこまめに、そして自分から積極的に上司や同僚とコミュニケーションを取っていくことが欠かせない。特に「たぶん大丈夫だろう」といった思い込みは徹底的に排除し、マニュアルを参照したり、すぐに他の人に確認をしたりすることが、お互いの顔が見えない中でミスを防ぐために最も重要。その日の業務内容と成果をまとめた日誌を書いて上司に報告することも、「在宅で仕事はできない」と考えている上司世代の意識を変えていく上で有効な一手となりうる。

 

<在宅でできる仕事> 
個人的な見解として、事務職員のすべての仕事は以下の4つに大別できると考えている。
①情報の収集・交換・発信・・・打合せ、出張、メール、電話、文書発出、窓口対応等
②情報の作成・加工・保存・・・文書・資料の作成、業務システムへの入出力、印刷等
③情報の確認・・・書類のチェック、納品物品の検収(現物確認)等
④意思決定・・・会議の開催、起案文書の決裁等
※係長以上の役職の場合は、「部下の教育」も追加となる。
※まれに清掃作業や公用車の運転・送迎等の仕事も生じるが、あくまで例外的なケース。
自分の担当業務において行っている作業内容を一度書き出してみた上で、上記の区分に当てはめて分類し、さらに業務遂行上で必要な手段・ツールを選択していくと、ほとんどの作業は何らかの方法で在宅でも可能であることに気づくと思う。(下表参照)

【契約担当の業務仕分けの例(一部のみ)】

業務内容

業務区分

必要な手段・ツール

在宅での可否

在宅で利用可能

在宅利用不可

PC

メール

Zoom

業務システム

仕様書作成

 

 

 

 

発注

 

 

 

○(入出力)

官公需実績報告

 

 

 

○(出力のみ)

したがって、「在宅では仕事はできない」というのは、大半の場合、思い込みに過ぎない。


<在宅ワーカーに問われるもの>
最後に、在宅という働き方を選択した人に突き付けられることになる課題について触れておきたい。在宅は決して仕事を楽にするものではなく、むしろハードルは上がる。そのハードルを越える力を身につけられないと、将来に渡って働き続けることは困難だろう。

1)自分がどれだけ担当業務の「プロフェッショナル」として「自立」しているか
知識が自分の中に蓄積されておらず、仕事の流れや仕組みを正しく、十分に知解できていない状態で在宅勤務をすると、自分自身で判断できないことにぶち当たって仕事の効率が落ち、ひいてはミスにもつながる。担当業務に熟達し、かつ個人の裁量で一定程度仕事を回せる域まで自立していないと、在宅で円滑に仕事を進めることは難しい。

2)業務の目的に対して、自分の仕事がどれだけの付加価値を生み出しているか
自分の仕事のミッションは何か、そのために成し遂げるべき目標は何かを突き詰め、周りと議論してコンセンサスを得て、それに対する正しい成果として示せる付加価値を自ら生み出す能力があるかどうかが、在宅で仕事ができる人とできない人との差という形で、白日の下にさらされる。労働時間の長さや、職場にいること自体が仕事なのだと勘違いしている人は、在宅で職場という時間・空間から切り離された「成果」を問われるようになると窮地に立たされることになるだろう。

 

(2020/4/25朝活「在宅勤務について考える」作成資料より転載)

気分を味わう

本当の旅の発見は新しい風景をみることではなく、新しい目をもつことにある。

マルセル・プルースト(小説家)

 

相も変わらず、仕事はノー残業であるがゆえに切羽詰まっていて、常に頭から離れてくれず、家ではずっと家事育児に追われていて、年中無休のめまぐるしい日々を送っている。とはいえ、時に波風の立たない程度に手加減や手抜きをし、時には不満をエネルギーに変換しながら、それなりに前向きに毎日をがんばっているので、ストレスが溜まっているかと言えばそういうこともない。「ストレスは早く発散しないと」という思いが強すぎると、外出自粛に焦りが募り、かえってストレスが増幅することもありうる。大事なのはストレスをゼロにリセットすることではなく、重くなりすぎない程度にセーブすることだ。自分の時間がなくて、あらゆる趣味や友人との付き合いを封印しても、自分の場合は、平日昼休みのバドミントンさえできていれば、ストレスを安全水域に保てるので大丈夫。人間は案外、鬱憤晴らしなどしなくても生きていけるものだ。

 

それでも、「ゲームしたいな~」とか「自転車で遠くに行きたいな~」といった思いが唐突に湧いてきて、無性にうずうずしてしまう日も、時々ある。そういうとき、自分は、ユニクロのこんなTシャツを着る。

 

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見てのとおり、マリオとモンスターハンターのTシャツである。あとは、攻殻機動隊のTシャツとか、ロードバイクの描かれたものも持っている。それらを着ることで、ゲームをしたり、アニメを見たり、自転車に乗ったりした「気分を味わう」ことが目的だ。実際にそれらができなくても、Tシャツを着ているだけで、ちょっと楽しい気持ちになるし、何も描かれていない服を着ているよりもちょっとだけ幸せに感じられる。今大事なのは、日々の何でもないことに幸せや楽しさを見い出すことなのだと思う。そのために、何年も前に買ったユニクロのTシャツたちが、大いに貢献してくれているのである。

 

冒頭の言葉は、物事の視点や捉え方を変えることで、見慣れたありふれたものからも、新たな価値を見つけることができる、という示唆を与えてくれるものなのではないだろうか。通勤途中にいつも通るお寺の前に掲示されていて知った言葉であり、毎朝これを見かける度に色々と考えさせられる。このお寺は1~2ヶ月ごとに新しい言葉を掲示するので、その更新がまた、ささやかな楽しみの1つだったりもする。そんな感じで、日常に新しい光が差し込むように、これからも「新しい目をもつ」ことに、それとなくチャレンジしてみたい。

 

(40分)

喉元過ぎても

5月25日までにすべての都道府県で緊急事態宣言が解除された。これでコロナ禍は「終わった」と考えて、以前の生活に戻そうとしている人も少なくないように感じるし、自分の職場だけ見ても、(形式だけで中身は個人に丸投げの)在宅勤務や(自分の課だけがなぜか特例的に会議室を使って実施した)分散勤務が終了したり、ソーシャルディスタンスを保たずに対面で会話や打合せをしていたり(宣言下でも今までとあまり変わっていなかったが)と、誤解を恐れずに言えば、まるで台風一過のごとき明るい雰囲気が漂っている。自分の周囲だけを見ていると、コロナ禍は「マスク着用」と「手指消毒」の習慣化というレガシーのみを残して、ものすごいスピードで過去に追いやられつつある。

 

ただ、自分はこの状況に対して、現時点では極めて懐疑的に受け止めざるを得ない。マスコミなどがアフターコロナだ、いやウィズコロナだと、次々と新語を繰り出しながらかまびすしく言っているように、社会は第二次大戦後や東日本大震災後のように、それ以前には戻れない不可逆的な変化を強いられることになるはずだ。季節を問わずマスク着用は外出時のデフォルトになるし、満員電車のような「密な場所」はこれまでにもまして生理的に避けたくなる。リモートワークへの対応として労働者の仕事の結果が、労働時間より成果で測られる傾向が強まるだろうし、時間の浪費に加えて密集密接のリスクもあるとなれば、「忘年会スルー」で顕在化した、気の進まない飲み会に参加しない選択をする人はますます増えるだろう。つまり、これまで通りのやり方、これまでと同じ考え方では通用しない場面がどんどん増えるということであり、あらゆる場において新たな物差しに対応し、多様な価値観に配慮するする工夫が強く求められるということなのだ。それが、いわゆる「ニューノーマル(新常態)」の社会ということであり、この急速かつ強烈な変化に対応できない者は、自然淘汰される宿命にあるということでもある。コロナ禍はまだ何も終わっておらず、むしろ始まったばかりなのだ。だから、その前提を抜きに、元に戻ろう、早く戻そうということだけしか考えていない人たちには、自分は強くノーと言いたいのである。

 

翻って、自分自身はどうだったかと言うと、ステイホームが強く叫ばれていた時期も、生活スタイルはほとんど変わらなかった。休日は元々子供の世話でずっと家に居り、外出と言えば近所のスーパー、公園、市内をどこに行くということもなく何となくドライブするくらいなもので、自粛を求められるまでもなく、ずっと前から自粛生活そのものだった。リアル飲み会もないので、リモート飲み会もやっていない(ただし、Meetでのリモート読書会は開催した)。唯一影響を受けたのは、大型連休中に行くはずだった1泊2日の佐渡旅行や隣県の妻の実家への帰省を中止せざるを得なかったことくらいだ。ただそれもいつでも出来ることなので、さほど大きな問題ではない。新しい生活様式で推奨されている生活習慣についても、帰宅時の手洗いうがいの励行なんてのは、小学生の頃からずっと当たり前に続けてきた(ここ数年は、顔さえもばっちり洗顔フォームで洗っていた)し、誰とどこで会ったかメモするというのも、タイムテーブル形式の日記(「日毎総合行動記録」と呼んでいる)で少なくとも14年前までは遡れる。混雑、渋滞、行列は元々大嫌いなので、新規開店で混んでいる店には人が少なくなるまで立ち寄らないようにしてきたし、大都市に遊びに行くこともほとんどないから、元々「3密回避」的な行動を自ら取っていたことにもなる。だから、生活習慣的にはあまり変わっておらず、逆に自分の獲得してきた習慣をこれからも続けていく重要性を再認識した、というのが実態だ。新しい生活様式というのは、言うまでもなく当たり前のことばかりが並んでいるかもしれないが、その当たり前こそが大切でかつ続けるのは難しい、ということを訴えているものなのではないかと個人的には思っている。

 

そんな訳で、新型コロナとともに過ごす日常はこれからも続き、仕事上では様々な変化への対応が求められ続けることになる。新規感染者数が少なくなるとどうしても意識が薄れがちだが、自分自身の感染リスクにも当然留意して、「自分はすでに感染しているかもしれない。目の前の人を感染させてしまうかもしれない。」という「かもしれない思考」を常に持たないといけないはずだ。効果的なワクチンが開発されるまで人類全体が「かもしれない思考」での行動を続けない限り、地球上からこのウイルスの脅威が消えることはない、かもしれないというように。喉元過ぎても、コロナ忘れず・・・そう肝に銘じて、今日もまたマスクをつけて出勤するとしよう。

 

(70分)

イクシゴ論(3)「「形状記憶組織」というラスボス」

新型コロナウイルスによるパンデミックで、新潟県を含む全国に緊急事態宣言が発令されたことを受け、自分の職場でも出勤人数を減らして接触を出来るだけ避けるための取組として、4月途中から「在宅勤務制度」が導入された。

 

制度といっても、急ごしらえで開始されたため、中身としては、在宅での仕事も出勤と認める、会社貸与の個人用ノートPCを仕事のために家に持ち帰ってもいい、という2点くらいなもの。在宅でどうやって仕事を進めるかという具体的な議論や支援策、在宅での労働時間を管理をする手段はなく、実際の在宅での働き方は各自の工夫に任せるという、職員個人に一切を丸投げするような対応だった。それでも、制度ができたこと自体は画期的だったし、家庭環境等に様々な事情を抱える個々の職員に応じた多様な勤務形態を用意し、働き方の柔軟性を高める面からも、在宅勤務はコロナ禍以前から始まっていた社会の変化の方向性にも合致していた。だから、今後各自の知恵を出し合って、より制度的な拡充を目指すべきだと思って自分は前向きに捉えていた。そして、生産性を高めるために、無駄な作業工程の洗い出しをするなど、コロナ禍を業務のスクラップアンドビルドを進める千載一遇のチャンスとすべきだと思っていた。だが、県内の緊急事態宣言が解除された途端に、組織が「在宅勤務はもうおしまい」という方向に素早く舵を切ったことで、自分の期待はあっけなく打ち砕かれてしまったのだった。(ちなみに、自分の課では事務室を2つに分ける分散勤務体制だったため、自分は在宅勤務は行わずじまいだった。)

 

ダイバーシティへの対応、働き方の柔軟性向上のための取組は、自分の職場でもこれまでいくつか導入されてきた。例えば育休制度、介護休暇制度、毎週水曜日のノー残業デーの設定、1時間単位で年休が取得できる労使協定の締結などである。ただ、ほとんど全てが法律の施行など外部的な圧力を受けて重い腰を上げて作られた義務的かつ必要最低限の内容のものだったし、規程を整備することをゴールとしていたから、組織的に制度の利用を促進するような働きかけはほとんどなく、実際にはあまり活用されてこなかった。そして今回の在宅勤務も、社会に不可逆的変化をもたらしつつあるとさえ言われているにも関わらず、自分の職場においては、時限的で一度きりの措置として、今まさに葬られようとしている。

 

一般企業では、優秀な人材の確保と定着を目指すため、働きやすい職場の実現に心血を注いでいるというのに、なぜ自分の職場では新たな制度を継続し定着させる流れが生まれないのか。ドラッカーの説くマネジメントと正反対のことが起きているのか。その原因は、50歳台で勤続30年を超えるベテランが職員の半数以上を占めている極めて同質性の高い組織であるという点にあると自分は考えている。彼らは、家庭のことを配偶者や同居する両親等に任せ、無条件かつ無制限の長時間労働を是とする昔ながらの正社員の働き方を長年続け、それを今でもスタンダードだと信じている世代である。そして、管理職から一般職員まで、その古き悪しき働き方にどっぷり染まっている人達が組織の過半を占めていて、その働き方をみんなで実践しているものだから、一向にそれを変えようなどと顧みられることがないのである。仮に時のトップの鶴の一声で残業削減が目標となっても、あくまでスローガンに留まって実効手段が伴わないから、しばらく経つとやはりまた以前の慢性的残業が復活する。何をやっても元の木阿弥なのである。したがって、この職場においては、「残業ができない」という制約を抱える職員は「異質」と見なされ疎外されるか、あるいはその制約を無視され残業ありきの仕事を当然に要求されるかのどちらかの状況に追い込まれてしまう。例えば、定時を過ぎて1時間経っても、ほとんど誰も帰ろうとしないこと、定時後も内線電話がかかってきたり、上司から仕事の指示が下りたりすること、ノー残業デーでもそうした状況が他の日と何ら変わらないことなどが日常となっている中で、毎日ほぼ定時で帰る職員がいれば、実際問題として周りから浮いてしまわざるをえない。帰宅後もそれぞれの家庭環境において職業上の仕事とは異なる意味での労働を続けているにも関わらず、ただ残業ができないということによって居心地の悪さを感じてしまうのであれば、それは到底働きやすい職場とは言えないだろう。仕事の努力や成果を労働時間の長さ以外の尺度で評価しようという概念も見当たらない。決して変わろうとしない、働き方を変えることに頑として抵抗するこの組織は、いわば「形状記憶組織」とでも呼ぶべきものである。一時的に力が加わって形が変わっても、一定時間が経つと必ずまた元に戻ってしまう。改善の取組が定着せず、旧態依然としたやり方がいつまでも繰り返され続ける。こうした組織こそが、育児と仕事の両立を阻む最大の敵、いわばラスボスなのである。そして、そんな組織に、またそこで働く個人に、目覚ましい成果や成長がもたらされるとは到底思えない。

 

今や、共働き核家族世帯では夫婦ともに家事育児を担うことが一般的である。三世代同居で女性が家事育児を専ら負担するような家庭を標準として、「男性は誰でも長時間労働が可能で当然」という認識を持っている人達がいるとしたら、それは完全に時代錯誤だ。少なくとも自分は、あからさまに見え隠れする周囲の旧時代的な認識に、「働きにくさ」を強く実感している。また同時に、勤務時間内に仕事を進めるために効率性や正確性を高める努力が、残業の削減による給与の減少という負のフィードバックをもたらす矛盾に直面し、著しいモチベーションの低下にも見舞われている。今、自分のような職員は、働き続けることの岐路に立たされているといっても決して過言ではない。そして、それは同時に組織の持続可能性の危機でもある。50代の職員は、あと10年経てば半分以上がいなくなっている。その人達の都合で、今後20年、30年ここで働かなくてはいけない若い世代に負担のしわ寄せがくるのは、どう考えても納得がいかない。そう思って我慢の限界を超えたとき、優秀な人から先にこの職場を去って行くことだろう。

 

形状記憶組織というラスボスと戦って新たな秩序を築くか、それとも不毛な戦いと見切りをつけて逃げるか。自分の心の混迷も、いよいよ深まりつつある。

 

(90分)

 

 ※注:「形状記憶組織」という言葉は、『これだけ!PDCA』(川原慎也、2012年)から引用した。

スポーツの力

新型コロナの影響で学生の部活動が禁止された3月上旬以降、職員が大学の体育館で昼休みに運動をすることも禁止になった。職場での数少ない息抜きの一つであり、土日にスポーツをする時間が作れない自分にとって、平日の昼休みのバドミントン(昼バド)は習慣的に体を動かすほとんど唯一の貴重な機会だ。それができなくなってしまった訳で、当時は率直なところ「そこまでやるか」と憤りも覚えたものだった。ただ、学生に使用禁止を求めている手前、職員が使うのは道理が立たないし、その後新型コロナの感染がどんどん拡大し、いわゆる3密を避けるという考え方が一般に浸透していくに連れて、この措置もやむなしと納得するようになった。その結果、昼休みにすることがない時間がぽっかり生じることとなり、運動らしい運動を何もしなくなって、早2ヶ月が経とうとしている。

 

いい加減、たまには運動しないと、体がおかしくなってしまう。そんな危機感に突き動かされて、昨日(5月2日)の朝、一人で1時間ほど自転車で屋外を走ってきた。近所の山の標高350mくらいのところまで上って、別のルートで下山するいつもの練習コースで、往復17kmほどの距離だった。アパートに置いてあるクロスバイクで走るのは、今回が実質今シーズン初めて。朝6時台の風は半袖短パン姿ではまだ肌寒く感じたが、晴天下で日差しが次第に強まるに連れ、また上り坂で負荷がかかるに連れて、むしろちょうどよく感じるようになった。1時間みっちり走って、子供が起きる7時前に帰宅。その後、すぐにシャワーを浴びてさっぱりしてから、子供を起こして、その日の日課にとりかかった。この朝の効率的な時間の使い方への満足感と、体を久々に動かした適度な疲労感の心地よさが相まって、何とも気分のよい状態で新たな1日のスタートを切ることができた。体を動かすことで心も軽くなって、心身ともにリフレッシュできる、スポーツの素晴らしさ、スポーツの力の偉大さ。そんなシンプルな事実と、そのありがたみを、ほんの1時間でしみじみと噛みしめたのだった。

 

とはいえ今は緊急事態宣言下。不要不急の外出は厳に慎まなければならない状況だ。従って、人が少ないうちに朝7時より前に終えること、一人ですること、出来るだけ山か田んぼ道を走ること、マスクをつけること、週1〜2回程度にすることといった条件を課して、守る必要がある。今後もコロナ禍の影響で当分、職場での運動はできないだろうから、健康維持に必要な最低限の運動を意識して続けていきたいと思う。

 

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↑下山途中でわき水をゲット。帰宅してからこの水でコーヒーを淹れたら、いつもよりちょっと贅沢な気分を味えた。

(40分)

TWD化する世界

今日にも、政府が緊急事態宣言を発令するという。まさか、首都直下地震が起きたわけでも核戦争が勃発したわけでもないのに、そんな日が来ることになろうとは。この1ヶ月半ほどの間に、自分を取り巻く世界はすっかり変わってしまった。

 

2月20日ごろにMちゃんが遊びに来たときには、まだ温泉施設も、居酒屋も、特にためらいもなく利用できたし、名古屋へと旅立った彼のことを前向きな気持ちで送り出せた。だが「密閉空間、密集場所、密接場面」の「3つの密」を避けることが社会の合い言葉になった今となっては、同じことはできないし、新潟よりも感染拡大が深刻な大都市に移動することに対しては、応援よりも心配の気持ちの方が勝ってしまう。

 

市場経済を通じたモノやサービスの提供への影響も甚大だ。マスクを買うためにドラッグストアの開店2時間前から行列が出来るなんて、未だかつてなかったことだし、紙製品がなくなるというデマを巡っては、人々が店頭に殺到してオイルショック時の光景が再現された。客観的事実に基づかない情報であることが明らかにされても、一度社会に蔓延してしまった不安な心理は、人々を自分本位な行動に駆り立てるということがこれによって証明された訳だ。時代が変わり、技術が進んでも、やはり人間の根本的な部分は変わらない。それを思い知らされて、心理学の普遍性・科学性への信頼は、自分の中で高まったのだった。いずれ、金融機関の取り付け騒ぎのようなパニックも現実味を帯びてくるだろうから、それを助長することのないよう、SNSの類いには(今までもほぼ使っていないが)一層距離を置かねばならないだろう。

 

自分はと言えば、これまでマスクも紙製品も、普段からの心がけで十分な「買い置き」があったので、今のところ行列に並んで買うことも、「買い占め」に走ることもなく、物資の供給不足に対しては冷静に捉えて距離を置いてきた。しかし、マスクの予備もだんだん少なくなってきたし、アルコール入りのウェットティッシュはすでに使い切ったし、徐々に余裕をかましてもいられなくなってきた。ミニマルなライフスタイルを掲げて、モノを持たないことを志向してきた人たちは、今頃悲鳴を上げているに違いない。また、仕事への影響も甚大な上、職場の体育館が使用禁止になって昼休みの運動ができなくなり、ただでさえ運動不足なのが運動ゼロになってストレスが溜まる一方だし、読書会も開催できなくなるし・・・といった具合で、あらゆる行動が制約を受けている。

 

ある意味、世界は終末へと向かっているように思う。いわば、「ウォーキング・デッド化」(TWD化)である。希少な物資を巡る混乱や、人の自由な移動を制限して自分の居住エリア・コミュニティを守ろうとする行動は、ゾンビのはびこる終末世界で繰り広げられる日常そのものだし、ウイルスが世界に蔓延する早さも、数多のゾンビ作品で描かれたとおりの現象だった。3密を避けるというのも、かの世界で生き残るための危険回避術のまさに基本中の基本である。ウォーキング・デッドをシーズン9まで全話見てきた経験が役に立つ・・・とはさすがに思えないが、すべての日常が急速に「非日常」へと反転し始めた今、思考回路を切り替えるためには、「世界はTWD化しつつある」と意識して危機感を高めることが有効なのではないだろうか。

 

(45分)