登山:小蓮華山(2026/10/5)

10月5日(月)、友人のYN氏とともに、長年の大きな目標だったある山に挑んできた。その山は、新潟県の最高峰である小蓮華山(2,766m)だった。


糸魚川市の蓮華温泉登山口までは、高速道経由で車で片道2時間。普段であれば地元で合流してから乗り合せて向かうところだが、YN氏の都合で今回は現地の駐車場で集合となった。彼の都合に合わせての年休での平日日帰り登山はいつものことだが、今回は午前2時起床、3時出発、5時到着という、翌日が仕事の日の登山にあるまじき超・強行軍なスケジュールで、あまりの早起きのせいで前夜も眠れたような眠れていないような状態だった。ただ、体調的にはほぼベストといえるコンディションだったし、現地の天気も曇りで、暑さも寒さも心配なしの好条件。何より、これから念願の山を登れるというワクワクドキドキ感でテンションが上がりに上がっていて、これだけの早起きにも関わらず眠気はほぼ感じなかった。昨年も10月にYN氏と同じ登山口まで来たのだが、そのときは雨が強く降っていて登山を断念した経緯もあり、「今度こそは」とリベンジに燃えてもいた。5時20分、まだ辺りが闇に包まれている中、ヘッドライトの明かりを頼りに、いざ山道を歩き出した。

 

秋真っ盛りの10月の登山は、2023年の黒姫山以来、おそらく3年ぶり。気温の低さと、日差しの穏やかさのおかげで、夏の登山のように汗が際限なく流れるようなことはなく、首に巻いたタオルで問題なく拭える程度のほどよい発汗で歩を進めることができ、平日とあって途中ですれ違う登山客も少なめだったこともあって、山行は比較的快適だった。樹木の種類もあってか色づきは控えめではあったが、時期的には紅葉のピークでもあった。ほかの登山客は概ねウインドブレーカーを着ていたが、自分は推定気温10度の山頂まで半袖Tシャツ1枚のスタイルを貫いた。風もそこそこあったが、自分の体温調整的にはこれでちょうどよかった。序盤は土の山道だったが、中盤からは小さめの石が敷き詰められた道が多くなった。不規則なゴツゴツした大岩を登っていくタイプの山道と比べると、一定の歩幅で歩ける分、歩きやすいと言えばそうなのだが、踏んだ石がガシャガシャと動くので上りでも下りでも足を取られやすいのと、先端の設置部が安定せずストックを使ったクッションが効きづらいので、特に下りでは足への負荷が大きいと感じた。この石敷の道が自分たちのいつもの登山スタイルとは相性があまりよくなかったらしく、今回はあまり登山タイムが縮まらない一因となった。自分以上にYN氏がお疲れ気味で、ペースが上がらなかったという要因もあった。

 

登山開始から2時間半ほどで、白馬大池(2379m)に到着。ここからは背の高い樹木がなくなり、景色が一変するとともに、絶滅危惧種のライチョウの生息地にも足を踏み入れることとなった。幸運なことに、今回は登山中に数羽のライチョウと遭遇し、そのうち1回は2羽が自分たちの歩いている登山道上に飛び出してきた。エサをついばむのに夢中で人間には目もくれず、しばらく見守っていても一向に逃げる気配がない。仕方なく30cmほどの距離まで近づいて、その脇を抜けて先に進むと、ようやく自分たちに気づいたのか小走りで茂みの中へと去って行った。知識としては知っていたが、さすがにこれほど警戒心が低いとは、驚きを通り越してやや呆れてしまったほど。とにもかくにも、夏・秋モードから冬モードへとの羽の生え替わりが進む途中のライチョウ(メス)の貴重な写真を間近で撮影でき、うれしいハプニングだった。そこから少し進むと、北アルプスの峰々の尾根が遙か遠くまで連なる雄大な風景が眼前に現れた。これこそが、あのNHKドラマ「坂の上の雲」にも登場した小蓮華山頂へと続く一本道だった。尾根伝いの道は、実際にそれを正面にして歩いてみると、どこがピークなのか分からず、これがピークか・・・いや違った、今度こそ・・・やっぱり違った、というのを何度か繰り返すことになり、中々に険しい道のりだった。しかし、左右に広がる光景は何もかもが絶景そのものだった。一面の雲海、その上に鋭くそそり立つ峰々、雲間から降り注ぐ太陽光が浮かび上がらせる山肌の緑の鮮やかなコントラスト・・・それらの美しさに目を奪われ、何度も足を止めては写真を撮ったのだった。

 

そして、9時20分、とうとう小蓮華山の山頂に到着。10年来の念願が叶い、新潟県で一番標高が高い大地に自分の足で到達した瞬間の感動は、これまで登ってきた数々の山とは、ひと味もふた味も違う大きなものだった。それを祝福するかのように、時を同じくして偶然にも山頂の「鉄剣」の向こうに虹がかかり、貴重で幻想的な写真も撮影できた。強風が吹いていたが、ガスはなく、長野県側、新潟県側、富山県側の360度をはっきりと見渡すことができたのもうれしかった。天上界のような世界、神々の座のような頂にたどり着けた喜びを噛みしめたのだった。

 

尾根伝いにそのまま進めば白馬岳まで縦走可能だったが、往復でさらに2時間以上もかかるので、今回の目標はここまで。30分ほど休んでから下山を開始し、13時に登山口まで無事に戻った。有名な蓮華温泉の野天風呂には、時間と体力の都合で今回は足を伸ばさず、13時半に帰途に着き、帰宅したのは16時。移動時間も含めると文字通り丸一日がかりの登山となったのだった。

 

さすがの新潟県最高峰ということもあり、登山道の長さと、標高差1,300mのアップダウンが思っていた以上にハードで、好天にも関わらず体力的にはかなりシビアだった。下山中からすでにパンパン状態だった足は、翌日には階段を上がるのも辛いほどのプルプル状態になり、完全回復には3日ほどを要した。体力面を考えても、まだ元気な30代のうちに「最高峰」を制覇したことは正解だったと感じている。こうして、大きな目標を達成してしまった今、次の登山の目標をどの山にするかが、目下最大の問題である。とはいえ、今シーズンはこれが最初で最後の登山だろうから、それは来シーズンまでにのんびりと決めればよいことだ。登っている間は少々辛くても、やはり登山には登山でしか味わえない楽しさがある。これだから登山は、やめられないのだ。

 

<2026/10/5:登山データ>

【小蓮華山】標高2766m、日本百高山
【登山口】蓮華温泉、標高1475m
【登りタイム】4時間(標準5時間)
【山頂滞在時間】35分
【下りタイム】3時間5分(標準3時間30分)
【総所要時間】7時間40分
【総距離】13.7km(ネット上の情報による)
【獲得標高】1291m

(※今回の写真は、フォトライフの「202610小蓮華登山」フォルダに保存した。)

(120分)

食

8月の真夏の炎天下から一転、雨続きだが比較的過ごしやすい天気だなと思っているうちに時は流れ流れて、今日で9月も終わり。そんなこともあり、今年はほとんど残暑の実感もなく、いつの間にか季節が夏本番から秋本番にワープしていたような感覚で、何だか狐につままれたような気分でいる。

 

秋と言えば・・・に続く言葉としては、「食欲の秋」がおそらく多くの人の支持を得る一番人気であろうと思うが、それにちなんでかちなまずか、驚きのニュースが飛び込んできた。食漫画の代名詞ともいえる、あの「美味しんぼ」が、2027年に「新 美味しんぼ」として再アニメ化されるというのだ。

 

旧作アニメのほうは、1988年~1992年のいわゆるバブル時代に放映されているから、約35年ぶりの新作ということになる。旧作では、第1話の字幕で茨城(いばらき)県に「いばらぎ」というルビを付けていて一部の茨城県民をザワつかせたという問題作(筆者の想像です)だが、当時よりコンプライアンスが極めて厳格になった現代において、同作が、というより海原雄山が、どのような形で蘇るのか、新作アニメには熱い注目が集まることだろう。間違いなく、マストで見るべき作品である。



自分と美味しんぼの関係は、原作が連載中だった小中学生時代にまで遡る。父が購入する数少ない(というよりほぼ唯一の)漫画の一つで、自宅に置かれていたものを自分も時々読んでいたのが、最初の出会いだったと思う。シリーズが買いそろえられていたわけではなく、おそらく父が興味を持った巻だけが購入されていたと思われる。第7巻「大地の赤」を読んだ記憶が鮮明に残っているのだが、これも父の実家がトマト農家だったことを考えると納得がいく。その後、中学校に進学すると、学校の図書室に同作が40巻くらいまで所蔵されていて、図書室にあるこれまた数少ない漫画の一つだったこともあり、主に昼休みにしばしば読んでいた。このときに初めて初巻から通して読み進めることになり、理由は覚えていないが、確か30巻くらいまで到達したところで読むのを中断した。たぶん、その辺りで興味がほかに移ったのだろう。多感な少年時代にあった自分にとっては、ノラリクラリとしたダメリーマンの主人公・山岡士郎よりも、その父にして美食家の海原雄山のほうが、その過激にして奔放すぎる発言に惹かれる部分があり、人間的にはともかくとして、言動には多大な影響を受けることになった。例えば、「刺身や寿司を食べるときに、わさびを醤油に溶かさず、別添えにする」という習慣を現在まで続けているのも、同作のエピソードに由来しているし、同作から得た食に関するうんちくも枚挙に暇がない。色々な部分で賛否両論があるとは言え、自分にとっては唯一無二の存在感を持つ作品であり、それゆえに、途中からあらぬ方向に「思想化」が進んで連載がストップしてしまったことは残念でならない。自分としては士郎とゆう子の「結婚披露宴」の辺りで一つの結末を迎えたと思っているし、そこから先の話はほとんど読んでいないので、完結を待ってはいないのだが、再アニメ化を機に原作にも何か動きがあることを期待している人は少なくないだろうと思われる。食は「時代の映し鏡」の一つでもあるから、原作が連載されていた約30年間の間に描かれた日本の食を巡る様々なテーマや問題が時代性を帯びるのは必然だし、そこに学びや気づきや面白さも生まれてくる(海原雄山が作中で徐々に丸くなっていくのも、ご時世が一因に違いない)。時間が許せば、一度序盤を再読してみたい作品である。

 

翻って、自分はというと、「食へのこだわり」というものはほとんどない。上記の「わさびと醤油」も、そうできるときはそのようにできればと意識しているというだけで、自宅では妻が醤油にわさびを溶いた「わさび醤油」にしてしまうので、それを一緒に使うことのほうが多いし、それに不満も感じない。目玉焼きには醤油かコショウかと問われれば後者と答えるが、醤油でも一向にかまわない。いわゆる手料理への執着のようなものもないので、惣菜も冷凍食品もお腹さえ減っていれば喜んで食べる。「食べられることで十分満足」なので、食に関して「これはこうでなくては」といった固定観念的な価値観はほぼないし、逆に実家の親が作った料理でまたこれが食べたいといったものも特にない。ただ、一つだけ挙げるとすれば「ぜんまいの煮物」がそれに当たるかもしれない。近所の山で採れた山菜のぜんまいと、油揚げ、つきこんにゃくを醤油で煮た料理で、朝食に白米と一緒に食べると美味しく、これを子供時代からずっと食べていた。今でもスーパーで惣菜を見つけると時々買って食べている。でも、「最後の晩餐は?」と問われたら、自分はハウス食品の「プリンエルで作ったプリン」と答えることにしている。仮に病床で今際の際にあっても食べられそうなもので、かつ好きなものといえば、これだと思うからだ。プリンは好きで昔からたくさん色んな種類を(固いのも柔らかいのも)食べてきたが、最終的に戻ってくるのはプリンエルの味と食感なのである。

 

ということで、食について朝から色々語ったところで、ちょうど炊飯器から炊き上がりの音が鳴り響いた。炊きたての白米と共にたべる今朝のおかずが、昨日実家からもらった「ぜんまいの煮物」なのは僥倖である。

 

(80分)

ゲームで辿る自分史:1990年代~2020年代

1990年代中頃 保育園~小学校低学年

両親が小学校教員でゲームに厳しい家庭だったため、小学3年生になるまでゲームは買ってもらえなかった。放課後や休日に隣の幼なじみの家に遊びに行っては、幼なじみの兄とその友人たちがTVを囲んでゲームをしているのを、後ろからじーっと見て過ごしていた。たまに遊ばせてもらえることもあった。「TVの前でワイワイガヤガヤ」という光景が、自分のゲームの原風景として刻まれることになる。

 

1996年5月頃 小学校3年

隣家に入り浸るのを見かねた親から、ようやくゲーム機を買い与えられる。初めて入手したハードは当時すでに人気のピークを過ぎて円熟期にあった「スーパーファミコン」、ソフトは「スーパードンキーコング2」(95年発売)だった。

小学生時代に遊んだゲームは、ほぼスーファミと、小5頃に入手したゲームボーイポケット(ゲームボーイの小型版)のソフトだった。誕生日、クリスマスのプレゼントとしてソフトを買ってもらい、クリアしたソフトは中古ゲーム店「カメレオンクラブ(カメクラ)」に売り、その代金を原資に別の中古ソフトを買う・・・というサイクルが中学生時代まで続くことになる。

90年代後半は、一般的にはバブル崩壊後の不況が深刻化した時期というイメージがある。一方、ゲーム業界においては、ソニーのプレイステーションと、セガのセガサターン(+任天堂のニンテンドー64)が「次世代ゲーム機戦争」を繰り広げる中で数多くの名作ソフトが生まれ、 TVゲームが隆盛を極めた黄金時代であった。学校での同級生の話題や、友人宅での遊びも、その大部分をゲームが占めていた。

ところが、自分の場合、親によって家でのゲームの時間は1日1時間どころか「土日に1時間」に制限されていて、据え置き型ゲーム機はほとんど遊べず、最新ゲーム(機)も買ってもらえなかった。そのため、友人たちのゲームの話題についていけないことへのコンプレックスを強く感じていた。

 

1999年~2000年 小学校6年

友人たちが遊んでいたのをきっかけに、GBソフト「ドラゴンクエストモンスターズ テリーのワンダーランド」(98年発売、ドラクエのスピンオフ作品)をプレイ。友人と通信対戦やモンスター交換をして遊び、ドハマリする。

そして、同年発売されたGBソフト「ドラゴンクエストⅠ・Ⅱ」をプレイしてRPGの奥深さと面白さに目覚め、RPGの代名詞であるドラクエに強く心を惹かれるようになる。その後、中学・高校生時代にかけて、ドラクエ歴代作品を次々とプレイし、関連作品の漫画・小説・音楽CDなどを買い集めるなど、ドラクエの世界に深く傾倒していくことになる。

 

2000年~2003年 中学生【主なゲーム機:WSC、GBA、PS、PS2】

ゲーム週刊誌「ファミ通」でゲーム情報を入手するようになり、高校卒業までほぼ毎号購読していた。ファミ通PS、ファミ通キューブといった兄弟誌も購入し、巷の最新ゲーム情報と、ファミコンに始まるゲーム史に詳しくなる。FF、バイオハザード、風来のシレンなど今も好きなゲームシリーズは、中学時代に初めてプレイしたものが多く、プレイするジャンルの幅が広がった期間でもあった。しかし家では相変わらずゲームをなかなかプレイできず、せっかく入手したPS2は映画を見るためのDVDプレーヤーと化していた。

この状況に革命を起こしたのが、中3の時に親に隠れて購入した「PSone&液晶モニター COMBO」(小型PSに液晶モニターがドッキングしたゲーム機)だった。当時25,000円程度と中学生が買うには非常に高価だったが、購入直後に2万円以下に値下げされ、涙をのんだ。

 

2003年~2006年 高校生【主なゲーム機:GBA、PS2、DS】

PSone COMBOは元々PS専用機だが、ハンディカム等の映像をモニターに映すための外部入力端子があり、特殊なコンポジットケーブル(赤白黄の三色の端子)を使ってほかのゲーム機を接続することで、液晶TV代わりに使用することができた。高校入学後は、わずか5インチの極小モニターにPS2を接続し、親に見つからないよう部屋の電気を消して、夜な夜なゲームをプレイする生活がスタート。自宅にブロードバンドが開通し、自分専用のデスクトップパソコンも入手して、ネット漬けの生活になったこととの相乗効果で成績と視力は急低下。高校2年生の年度末には、数学Bと化学の2科目で落第するも、火事場の馬鹿力的猛勉強で何とか追試をパスし、進級の危機を脱することに成功した。

中学時代までは、「ゲームをしたくてもできない」ことへの強い不満を持っていたが、高校時代になりようやく「自分のやりたいゲームを、満足いくまでプレイする」生活を実現することができた。上述の困難は、その代償でもあった。

高2当時は、ソニーのPSPと任天堂のニンテンドーDSが「次世代携帯ゲーム機戦争」を繰り広げるなどゲーム業界も活気があり、ケータイのアプリゲームやPCのフリーゲームでも玉石混交の作品が個人から次々とリリースされ、それらのプレイにも忙しかった。ゲーム好きな同級生にも恵まれ、ノリが高じて学校の球技大会の日にTVとゲーム機を持ち込んで白昼堂々教室でプレイするという伝説を残すに至る。自分の人生においては、この期間が最もゲームライフを謳歌した「ゲーマーとしての黄金時代」だったといえる。

 

2006年~2010年 大学生【主なゲーム機:PS2、DS Lite、Wii、PS3】

受験勉強から解放され、一人暮らしを始めたことで、ゲームのあらゆる制約が完全に取り払われて、文字通り「ゲーム三昧」の生活に。しかし、夜更かしの昼夜逆転生活がたたって大学の授業に出られなくなり、1年次後期はほぼ引きこもり状態に陥る。結果的に、1年次終了時点でわずか12単位しか取れず、半期22単位までというCAPの制約上、3年次への進級要件の60単位の取得が絶望的な状況に追い込まれてしまう。この危機的状況で迎えた2年次では、授業へのマジメな出席と、放送大学・集中講義・語学試験という「裏技三奥義」を駆使して進級要件を上回る72単位まで到達し、難を逃れる。その後も3年次秋のリーマンショックで就職市場が暗転、内定獲得が4年次の11月まで遅れるなど紆余曲折と波乱の4年間を送る。

「ゲーム廃人」的な状況だった期間、公務員試験に行き詰まっていた期間も含め、大学時代を通じてゲームはプレイし続けていた。しかし、サークル活動もせず、ゼミ以外の友人がほぼいなかったため、友人と一緒にゲームに興じることもほとんどなく、高校時代に比べると非常に孤独感の強いゲーム生活だった。

とはいえ、友人と一緒にプレイした「ドラゴンクエスト&ファイナルファンタジー in いただきストリートSpecial」(04年発売、PS2)では、プレイするたびにみんなで熱狂的に盛り上がり、子供時代の原風景である「TVの前でのワイガヤ」の楽しさを心から味わうことができた。社会人になってからも、当時の友人と会う度、いたストを一緒にプレイするのが定番となっている。

 

2010年~現在 社会人

お金と時間はトレードオフの関係とよく言われるが、社会人になって自分の自由に使えるお金が増えた反面、自由な時間は相対的に減り、次第にゲームへの情熱はかつての温度を失っていった。友人たちとも別々の道を歩み始め、「一緒にゲームをする」ことが日常ではなくなっていったことが大きかったのかもしれない。友人の勧めで卒業間際に始めたFPS(一人称視点シューティング)「コールオブデューティ」シリーズ(PS3)では、ヘッドセットの音声チャットを交しながらのオンラインマルチプレイという新しい遊び方が非常に刺激的で、一時期のめり込んだものの、次第に友人と都合が合わなくなり2012年末までには終了することになる。

「ゲームを卒業する」なんてことは永遠にない、と高校・大学の頃までは固く信じていたのに、いつの間にか自分とゲームの間に卒業に近い距離が生まれてしまっていた。ファミ通も、社会人になってからパタリと買わなくなってしまった。それは悲しむべきことだろうか?いや、必ずしもそうではないと思う。

現在、日常的にゲームをプレイする習慣はほぼないが、それでもゲームを愛する気持ちは今も変わっていない。自宅には常にゲーム機があり、Nintendo Switchを子供が毎日遊んでいる。そして、時々子供と一緒にプレイすることがあるし、家族でドラクエのコンサートやイベントに参加するという、自分の子供時代には到底考えられなかったゲームの楽しみ方が実現できている。そんな付き合い方が、人生を共に歩み続けた先に訪れた、自分とゲームとのちょうどいいバランスなのかもしれない。                

~Fin.~

(原作180分以上、朝活レジュメより)

社労士試験:2026/8/23

8月23日(日)は、令和8年度社会保険労務士試験の試験日だった。自分の初受験の舞台は、新幹線で県をまたいだ最寄りの群馬会場(高崎市の「Gメッセ群馬」)。試験終了時刻30分後の帰りの新幹線に乗るため、終了直後に会場から飛び出して高崎駅まで全力ダッシュし、夕飯の弁当を買って何とか列車に飛び乗るという強行軍の日帰り受験であった。色々と感じたこと、考えたこともあったのだが、結果が出た今となっては最早そんなことを語るまでもない。

 

果たして事前の予想どおり、今年度の社労士受験は不合格に終わった。一夜明けた今朝、ユーキャンの解答速報を基に自己採点をしてみたところ、「110点中59点」という結果が判明したからだ。選択式・択一式それぞれの科目ごとに設定された「合格基準点(足切り)」を下回る科目もあるため、全体の得点に関わらず不合格だし、そもそも60点台半ば~70点の合格ラインには全く届いていない。文字通り「撃沈」である。10月1日の合格発表は、見るまでもない。試験時間中は必死で解いていたし、午前中の選択式では明らかに例年より「易化」している印象を受けていたので、「万一、もしかしたら・・・」という淡い望みも持っていたが、その期待は完全に打ち砕かれ、早朝からがっかりした気分になった。とはいえ、圧倒的に勉強時間が不足していたし、基本的な理解も不十分だった以上、この結果は至極当然だと納得している。仮にこんな「ちゃらんぽらん」な状態で合格するような「まぐれ」が起こってしまっては、資格試験としての存在意義に関わる重大問題というものだ。むしろ、社労士試験の難しさと過酷さを身をもって体験したからこそ、「挑戦しがいがある」と改めて資格取得への思いを強くしたし、視線はすでに来年度の試験に向いている。

 

RPGで言えば、ラスボス戦に敗れ、ラストダンジョンの入口の遙か手前、中盤の町のセーブポイントまで戻されてしまったのが、今の状態だ。推奨レベルが50だとすれば、まだ25あるかないかといったところだろう。まだ1年あるから、このまま町で少し一休み・・・という気持ちは一切持たず、今日から再び魔物に挑んでのレベル上げ(=勉強)を再開しなければならない。ただ、同じテキストを来年も使い回すのはさすがに苦痛だし、法改正への対応を考えると不適切でもある。近日中に、ユーキャン以外の通信教育に申込んでみるとしよう。それにしても、択一式の210分の試験時間は、身体的にも精神的にも限界を超えていた。脳がオーバーヒート寸前まで追い込まれたあの苦しさを思い出しながら、来年こそは(あらゆる意味で)「最後の受験」にする覚悟で、心機一転がんばりたい。

試験の帰りに高崎駅で買った「合格だるま」。来年の合格の願いを込めて目を入れるつもり。

(60分)

東京日帰り旅行:2026/8/10

8月10日、家族を連れて日帰りで東京に行ってきた。子供にとっては、初めての東京訪問だった。

 

今回の目的は、東急プラザ原宿「ハラカド」で開催中のドラゴンクエスト40周年記念展『ドラゴンクエスト the DIVE -まだ見ぬ冒険の舞台へ-』(会期:7月17日(金)~9月6日(日)まで)へ行くことだった。自分は今年3月末にスクウェア・エニックスアプリで先行販売チケットを購入し、4ヶ月以上も前からこのイベントを楽しみにしていた。それは妻と子供も同じであり、妻は会場限定グッズの品定めに余念がなかったし、子供はスライムなどのモンスターがたくさんいるイベントだと思ってワクワクしている様子で、お気に入りのわたぼうのぬいぐるみ(DQM3限定版に同梱されていたもの)を抱っこして持ってきていたほどだった。我が家ではドラクエは親子共通の趣味となっており、その長い系譜は着実に次の世代に受け継がれつつある。会場に着くと、開場時間の11時より30分前だというのにすでに入場待ちの長い列ができていた。ただ、このイベントは「1時間制」でチケット購入時に予め入場日時が指定されているため、特定の時間に人がどっと押し寄せて混雑しないように設定されていた。そのため、建物内で20分ほど待つだけで済んだし、「11時~12時」の時間帯で予約していたが実際には10時50分頃には入場できてありがたかった。入場して最初に体験したのは、このイベントの目玉である没入型アトラクション「ドラゴンクエストVR RIDE」だった。VRゴーグルとヘッドホンを付けて専用のシートに座ると、360度のCG映像が視界に広がり、モンスターが闊歩し飛び交うドラクエのフィールドの中に実際に入り込んだかのような体験を楽しむことができる。キラーパンサーの背中に乗って草原を疾走したり、高い場所から飛び降りたりすると、それに連動してシートが傾いたり振動したり、風が噴射されたりするので、リアリティが半端ではなく、大人でも夢中になってしまうほどの没入感を味わうことができた。会場でも「ネタバレ注意」と言われていたのでこれ以上の説明は避けるが、とにかくこのVR RIDEだけで、東京までやってきた価値は十分あったと思ったし、5分あるかないかの短さではあったが3000円超のチケット代でおつりが出るほどの満足感があった。当然ながら、子供も大興奮しており、すごかった、楽しかったと喜んでいた。このイベント限りのアトラクションにするにはもったいない出来だったし、できることならもう一回乗りたいと思ったほどだった(VR RIDEは1回の入場で1回しか体験できない)ので、会期後にどこか別の場所で何らかの形で常設されてほしいと思ったのだった。そのほかにも、実物大(?)キングスライムに抱きついて写真撮影できたり、のぞき込むと自分の「本当の姿」がモンスターとして映る「ラーの鏡」があったりと、ドラクエならではの遊び心あふれる展示が順路に沿って続いていて楽しめた。

www.dragonquest.jp

原宿のビルを出た後、次に向かったのは、「ルイーダの酒場」だった。ドラクエの世界観やモンスターなどをモチーフにしたメニューを提供している「コラボレーションカフェ&バー」である。2011年と2015年の2回利用したことがあるが、2020年に六本木から秋葉原に移転してから来るのは初めて。席がカウンターのスタンディングから、イス・テーブルに変わっていたので、家族連れにも安心だった。こちらも13時30分から予約してあったので、ハラカド内のドラクエコラボレストランが「2時間待ち」となっていたのを尻目に、待ち時間なしで入場できた。定番のスライム肉まん、ゴールデンスライムのデミオムライスのほか、様々なフードとドリンクをオーダーして、遅めのランチを楽しんだ。店員さんがメニューを持ってくるときに、ドラクエの世界観にちなんだ一言を添えてくれたり、こちらの反応に対してユーモアのある返しをしてくれたりするのも面白かった(スライム肉まんが出てきたときに「やっつけるぞ!」と言ったら、店員さんから「かわいそうなので仲間にしてあげてください」という言葉が返ってきて、ニヤリとしてしまった)。ワンドリンクにつき1枚コースターがおまけで付いてきたのと、「40th記念プレート」というフードにも限定コースターが付いてきたので、思いがけずお土産に5枚のコースターをゲット。妻にも秘密で用意していた子供へのサプライズも大成功で一安心。心の中もお腹の中も大満足で、お店を後にしたあとはそのまま東京駅へ。16時半に早々と帰りの新幹線に乗り込み、ドラクエ三昧の1日を終えたのだった。

paselabo.pasela.co.jp

今回は滞在時間が短い日帰り旅行なので、予約によって会場での行列や混雑のタイムロスを避ける一方で、妻と子供が迷子になったり疲れたりしないように移動時間に十分な余裕を持たせることを意識していた。原宿からルイーダがある秋葉原までは電車で30分ほどの距離だが、移動時間で1時間以上確保していたので、途中で休ませつつたどり着いたのは予約時間ちょうどだった。一人であれば、極限まで効率的に動いて色々と予定を詰め込むこともできるが、家族連れではそうもいかない。車ではなく、電車移動であればなおさらだ。このスタンスを貫いたおかげで、妻と子供のご機嫌を最後まで保ったまま無事に帰途に着くことができた。今回の旅は、今後の東京旅行におけるモデルケースになるだろう。

「40th記念プレート」。子供の希望で、刺さっている旗も記念にお持ち帰りした。

「どうぐや」で入手したお土産。3分の1くらいの商品がすでに売り切れで、目星をつけていた商品が買えずちょっと残念。

DIVEのもう一つのお目当てだった限定特典「伝説の剣 特製ピンバッジ 3種セット」を入手。限定特典付きチケットは9,400円のところ、ネットではこの倍の値段でピンバッジが取引されているが、自分は後生大事に保管するつもり。今は自宅玄関に飾っている。

(90分)

社労士学習:2026/8/4

8月23日(日)の社労士試験本番まで3週間を切った。受験票のハガキも届き、いよいよ最終盤。ここで最後の追い込みをかけるべく、今まで以上にやる気を燃やし、寝る間を惜しんで勉強時間を増やしている・・・かというとそんなことはなく、ただ淡々とこれまでと同じようにユーキャンのデジサポを使って問題演習・過去問演習を続けている。むしろ、1ヶ月前と比べると、勉強のために朝4時台に起きていたのが日の出の時間が遅くなるにつれて朝5時台に後退したし、何なら勉強時間も減少傾向だ。正直なところ、今年の試験での社労士合格は、すでに断念している。どうして、受験前なのにそんな心境になってしまったのか。その要因を整理してみると、以下のようなことが挙げられる。

 

①数字要件の理解不足

社労士試験にはとにかく色んな数字が出てくる。「書類の提出日」であれば、14日以内、30日以内、速やかに、遅滞なく、といった具合にパターンがあって、正しい答えを選ばなければならないし、「書類の保存年限」も2年、3年、5年、5年だが当面の間3年など様々である。これらの数字に明確な法則性は見いだせないし、丸暗記しようにも膨大かつ細かすぎて正しく覚えられない。なかなか頭に引っかからない数字については、強引な語呂合せを考えて無理矢理暗記を試みてきた(健康診断や面接指導の結果の保存年限は5年→健5(けんご)→「剣豪は健康」など)が、数百件以上ある数字を語呂合せにしたら、情報量が爆発的に増えてかえってこんがらがるのでこれも現実的ではない。このため、テキストを読んだり、問題演習をして答えを確認したりして、その場では何となく覚えたような気になった数字も、満杯のコップに注いだ水がこぼれ落ちるように、目を通した瞬間から次から次に頭をすり抜けて行ってしまい、一向に長期記憶が形成されないのである。

②制度の体系的理解の欠如

社労士試験には、労基法、安衛法、雇用保険法、国民年金保険法・・・といった社会保険制度全般に係る幅広い分野が出題される。そして、それぞれの制度の共通点と相違点をきちんと区別して、正しく理解することが求められる。そのためには、付け焼き刃ではない「体系的理解」が不可欠になるのだが、テキストを流し読みしながらとにかく先へ進むことを最優先してきた自分は、「何となくこんな感じ」程度の「表層的理解」しかできていないので、ちょっとアレンジした問題が出たり、「給付の調整」といった各制度間の関連性を問われたりすると、立ち所にボロが出て行き詰まってしまう。テキスト学習の段階で「なるほど!」と納得しないまま進んできてしまったことが、こうした状況につながっているのだが、とはいえ唯一の得意分野である労基法以外は、日常では関わりのない制度ばかりなので、学習の中で「腹落ち」レベルの理解に至るのは非常に難しい。体系的に理解できないから、エビングハウスの忘却曲線のスピードでどんどん忘れていってしまうのである。

③知識同士の混線

①②のように理解が中途半端であることの帰結として、社会保険の各制度の似たような部分の区別がつけられず、知識がこんがらがって正しい答えを出せなくなってしまう。例えば、不服申し立て、時効、給付制限といった仕組みはどの制度にもあるのだが、これらの知識の整理ができていないので、どの数字がどの法律のものだったか、この制度とあの制度ではどの部分が違うのか、わからなくなるのである。そうしたややこしい部分を整理した教材があればいいのだが、必ずしもそうした資料が見つかるわけではなく、かといって自分で調べてイチから資料を作るほどの余力もない。結果、曖昧な状態がいつまで経っても解消されずに知識が定着しない泥沼に陥っている。

④学習時間の圧倒的不足

上記の要因につながる根本的な原因として、学習時間が圧倒的に不足しているという問題がある。もちろん、勉強量は勉強時間に必ずしも比例しないが、それでも勉強のためには一定の時間が必要不可欠なので、目安としては有効な指標だ。自分の場合は勉強を開始した昨年12月からの8ヶ月間(約230日)で、推定250~300時間程度しか学習できていない。ネット上では、「最低1000時間」といった数字が常套句のように飛び交っていることからすると、「真面目にやっているのか」とお叱りを受けそうなレベルだ。ただ、これでも決して勉強をサボったり、試験を甘く見たりしていたわけではない。この間、家族が起きる前と寝た後の数少ない自由時間の多くを勉強につぎ込んでいたし、妻が入浴している間や、祖母の葬儀で火葬場に移動するバスの車内など、わずかなスキマ時間でさえも問題演習に充ててきた。ただ、部下が不在になり自分一人で乗り切った年度替わりの繁忙期の仕事はただでさえハードだったし、毎日の家事・育児タスクも抱える中で、正直、これ以上の時間を勉強につぎ込むことは無理だったと思う。週末に家族をほったらかして8時間勉強するような「身勝手」は、我が家では自爆行為に等しい言語道断の所行であったし、週末や平日の夜に家族とリビングで過ごす時間を「スキマ時間」扱いし、家族を無視して一人で黙々と社労士勉強をするようなことも到底あり得なかった。仮にもそんなことをしようものなら、「家族よりも勉強が大事か。そんな試験なんて受けるな!」と妻が怒り心頭になるのは分かりきっていたし、実際にこの類いの嫌みや罵倒は(家族の前では極力「勉強しないように」していたにも関わらず)日々浴びせかけられていた。勉強することそのものが困難を極める中で、それを1000時間も積み重ねることなど夢のまた夢だった。

⑤メンタル的な限界

上記のとおり、「家族を犠牲にしている」と妻に指弾されながらも、雀の涙ほどの自分の時間を「削り取る」ようにして勉強してきたのだが、余暇や趣味の時間を排除した生活を続けるにつれて、徐々に精神的な限界が見え始めた。せっかく値上げ前に手に入れたNintendo Switch 2を一切プレイせず、マンガを読んだりもしなければ、酒を飲むこともほぼない「禁欲生活」のような日々を過ごす中で、だんだんとストレスが溜まり、勉強への集中を欠くようになってきた。とりわけ、直前期に差し掛かり過去問演習が中心になってくると、難問奇問に苦戦する中で勉強へのストレスが急上昇。それに反比例して、勉強へのモチベーションが急速に低下していき、追い込みをかけるべき段階なのにかえって勉強に身が入らない「負のループ」に陥り、現在に至る。ストレスが蓄積した心は空気がパンパンに詰まった風船のようなもので、あるラインを超えるとそれ以上入らないように心が防衛反応を取るようになる。そこで無理をすれば風船が破裂して心が壊れてしまう。風船が一定の大きさを保つように、正しく空気を抜く「発散」が、勉強と同じくらいに大事だったということである。

 

そんな訳で、一発合格を諦めた自分は、試験直前期の中でも緊張感・緊迫感はなく、「消化試合」のように細々と勉強を続ける日々を送っている。すでに「不合格後」のことも考え始めているのだが、ユーキャンでもう一度同じ教材をやり直すことには到底精神的に耐えられないので、「フォーサイト」など別の通信教育をやってみようかと思っている。また、3回目までは受験しようと思うが、そこで手応えがなければ、もうそれっきりで手を引くつもりでいる。社労士資格を得ることで「何者か」になりたいというのが受験の最大の動機であり、勉強の原動力でもあったのだが・・・。今回の「失敗」を踏まえて、改めて「来年の試験」に向けた対策を早急に考えていきたい。

6月中旬に自宅トイレに設置した勉強コーナー。壁に貼り付けたクリアファイルの中にテキストのコピー等を予め挟んでおくことで、用を足している間にハンズフリーで勉強できるという優れもの。スキマ時間活用の極致。

(110分)

夏の終わり

これで、今年の夏は終わった・・・。そう思ってしまうほど、自分が力を入れて準備していたイベントが、先週木曜日に行われた。それは、職場の有志を引き連れて参加した地元の祭りの民謡流しだった。

 

自分は採用1年目から、組織としての地域貢献を目的にこの民謡流しに参加してきたが、「幹事長」としての参加は昨年に続き今回が2回目だった。昨年は、コロナ禍によって参加が一旦途絶えていた中で、6年ぶりに職場での参加を復活させるという一大プロジェクトだったこともあり、多くの作業が手探り状態だったほか、プラカード代わりの会社名が書かれた看板(当日台車に取り付けて運搬する)をリニューアルするなど、いくつかの新機軸を打ち出したこともあって、準備はかなり大変だった。しかし、今年は昨年の経験と反省と資材類を活用することで、物理的にも心理的にも、かなり余裕を持って準備できたのが、幹事業務における大きな変化であり進歩であった。特に、「幹事同士の連係」という点では、数々の好プレーが光り、本番当日の運営の安定感と臨機応変さは去年と比べ格段に向上していた。幹事は自分を含む30代~20代の職員3人で構成され、自分以外の2人は、自分が指名して協力を取り付けた、いわゆるツーカーの仲の職員だった。中でも今回初めて民謡流しに参加した20代の後輩職員は、若さに加えてやる気も十分で、フットワークが必要な場面で自ら「自分がやります」とさっと名乗り出てくれることが多々あり、自分も安心して様々な行動を託すことができた。今の職場の若手世代の中で、自分が常々考えている「周りを巻き込んで動かす」ことの重要性を理解し共感してくれるほぼ唯一の存在なので、いずれは彼に自分の後任として、幹事長を担ってほしいという思いがある。

 

振り返ってみると、自分にとって今年の幹事としての最大のテーマは、「運営を担う次世代の育成」だった。だから、自分一人でできることにもあえて彼を一緒に加わらせて、準備や運営の全体像が見えるようにしたし、彼自身にもその意図を度々伝えることで、快く協力してもらえた。周りへの気配りや先の動きを見据えた先見性という点でも、彼は卓越していた。彼の能力と熱量の高さに大いに助けられたこともあり、準備も本番でもほぼ自分が想定していたとおりに進行し、多くの歯車ががっちりかみ合って勢いよく回るような小気味よさと手応えとを実感することができた。もちろん、総勢35名の参加者のみなさんも心から楽しんでくれていたし、好天に恵まれてケガもトラブルも起きなかったので、文字通り「大成功」で活動を終えることができたのだった。後継者の育成が前進し、自分が何とかしなければという責任感が幾分か薄れたこともあってか、去年は強くあった「祭りロス」の感情はほぼ感じていない。今は、細々とした後片付けをしながら、祭りのあとの心地よい余韻に浸っているところである。

 

夏は何も「真夏のピークが去った」ときに、あるいは2学期が始まったり、甲子園が閉幕したりしたときに終わるのではない。「夏の終わり」を実感する瞬間は、一人ひとり異なるものだ。それが自分にとっては、「職場で参加する民謡流し」だったのである。ちなみに、祭りは準備しているときよりも、やっている最中よりも、日常に戻っていく「片付け」のときこそが一番楽しくて、味わい深い・・・というのが自分のかねての持論なのだが、これに共感してくれる人はどれくらいいるだろうか。来週末の幹事でのプチ打ち上げの際に、ぜひほかの二人に訊いてみるとしよう。

 

(60分)