イクシゴ論(6)「『育児3大ストレス』に関する考察」

平日は日中の会社でのフルタイム定時勤務と朝晩の育児に忙殺され、休日は家で子供につきっきりで家事育児に専念する。そんな「24時間戦えますか」状態がずっと続き、仕事からも育児からも丸一日解放される本当の休暇は年に2、3日あるかどうか。小さい子供の育児と真面目に向き合っている親は、男女を問わず、きっとそうした日々を送っていることだろう。自分はまさに、そうした戦場の真っ只中にいる。

 

これを続けるには、身体面での体力が必要なのはもちろんのこと、精神面においても相当な気力、具体的には「前向きさ」を保持することが欠かせない。体は丈夫でも、心が折れてしまっては、到底健全な育児は出来ないし、仕事で結果を出すことなど期待すべくもないからだ。だが、自分の感覚から言うと、日本の育児においては、親が抱えるメンタル面でのストレスをケアするための支援という観点が弱く、育児ストレスの改善が個々人の努力に委ねられている印象がある。そして、その根底には、「育児は大きなストレスを伴うものである」という認識が日本社会において希薄であることが、大きな問題として横たわっているのではないかと思う。日常的に育児に関わることのない人々、すなわち過半数以上の国民が、乳幼児を持つ親が育児を好きでやっている、楽しくやっているというイメージを抱いているとしたら、そこから子育て世代への支援という発想は生まれてこないからだ。だが、育児は趣味ではなく仕事である。楽しかろうが、辛かろうが関係なく、毎日続けなくてはならないものだ。


ではそもそも、育児において何がストレスの原因になるだろうのか。様々な要素が考えられるが、自分が最も大きな影響を受けていると感じる原因は、この3つに集約できる。

 

(1)常にKY(危険予知)をしなければならないこと

KYとは、建設工事などの現場で労働災害を防止するために遙か昔から使われてきた言葉で、「危険予知」の略である。クレーンから鉄骨が落下してくるかもしれない、突風にあおられて足場から転落するかもしれない…といったように、何らかの要因で自分や周囲に起こりうる危険を予測して、アクシデントを未然に回避するための安全行動を取ることを指す。このKYの視点の重要性は、小さい子供の育児にも全くそのまま当てはまる。子供と自宅の部屋で一緒にいるとき、親は、子供が転んでテレビ台の角に頭をぶつけるかもしれない、床に落ちているボタンを口に入れて飲み込むかもしれない、包丁を使って料理している最中に突然抱きつかれるかもしれない…といった「かもしれない」思考を常に働かせている。そのため、包丁の刃先だけでなく子供のほうにも注意力を傾けたり、事前に角を保護するクッション材を買って取り付けたり、床に落ちているものを拾ったりといった具合に対策を講じる。あるいは家の中で別々の部屋にいるときも、このドアを開けたら子供がいるかもしれない、と予測して、ドアを勢いよく開けないように気をつけないといけない。また、屋外を散歩しているときでも、三輪車に乗っている子供が田んぼに転落するかもしれない、いきなり走り出して道路に飛び出すかもしれない、などとあらゆる危険パターンをシミュレーションしなければならない。このKYシミュレーションのために、常に脳内の50~60%くらいのリソースが割かれているといっても過言ではない。残りのリソースで、家事だとか仕事だとかのことを考えているから、休日でも頭の中が休まることはないし、家の中でぼけーっとすることなど出来ようはずもない。趣味で気晴らしでも出来ればよいが、そもそも子供と離れる時間を作ることができないので、趣味の時間は作れない。そのため、絶え間ないKYによる緊張が徐々に心をむしばみ、ストレスが雪だるまのように大きくなっていくことになる。

 

(2)周囲からの共感の欠如

育児に関して認識違いをしている周囲の人々のトンチンカンな言動もストレスの原因となる。例えば、育児がすっかり過去のことになり、記憶が消去あるいは美化されているジジババ世代に対して、3歳の子供がいると説明すると、まず十中八九返ってくるのが「かわいいでしょ」といった類いの言葉である。確かに自分の子供はかわいいと感じるし、それは当然否定はしない。だが、この言葉を発する人たちの眼中には、子供がいることで自分の時間や行動が制限されること、育児が日常であることの非日常さ、大変さという視点が欠如している。たまに帰省する孫と遊ぶくらいしか子供と接する機会がないのであれば、そこに思いが至らないのはある意味自然なことだ。特に、働き盛りの頃に共働きで三世代同居だったジジババ世代だと、自分の子供の世話を自分の親(つまりヒイジジババ)に任せきりで子育てにあまり関わってこなかったというケースもありうるから、こうした世代の相互理解は一層難しくなる。それが他人なら誤解と無理解にも諦めもつくが、自分の親がこのケースとなるとそうも行かない。自分で育児を何も手伝わない、お金も出さないくせに、「孫を連れて来い」ということばかり頻繁に声高に執拗に要求してくる。自分の子供の世話もロクにしてこず、孫の育児のサポートにもノータッチのくせに、孫と遊ぶうまみだけ味わおうとは、何と図々しいフリーライドだろうか。そこに今の自分は心底腹を立てている。そのため、実家は車で10分の近所であり個人的な用ではほぼ毎週顔を出すが、子供を連れて行くのには断固抵抗し、年数回だけに留めている。その数回も、目的は自分の祖父母(ヒイジジババ)にひ孫の顔を見せることであって、できるだけ自分の親が不在の日を選んで行っている。こうした育児の大変さへの共感のない、話しても伝わらない人々から受けるストレスは小さくないのである。

 

(3)パートナーの価値観との対立

そして、もう一つのストレス要因は、パートナー(自分の妻)との価値観の対立である。具体的には、子供への教育に対する考え方のズレ、旧来的・保守的な考え方への固執ということが挙げられる。例えば、つい先日の事例なのだが、子供が「仮面ライダーのパンツが欲しい!」といったので、自分は子供用品店に買いに行くことにした。しかし妻は「女の子は仮面ライダーなんかダメ!プリキュアとか女の子らしいものにしなさい!」の一点張り。子供が欲しいといって泣いても、絶対に認めようとしなかった。家ではこの問題に決着がつないまま、翌日お店まで行ってみたところ、女の子用の仮面ライダーパンツがなかったのと、子供自身がネコの描かれた「女の子らしい」パンツを自分で選んだので、最終的に今回は妻の「勝利」に終わった。女の子用の商品にライダーがなかったのが世間一般の「常識」をわかりやすく象徴しているとおり、妻は「女の子は女の子らしくあるべき」という旧来型のジェンダー観に何の違和感もなくどっぷり浸かっている。そこが、「らしさなんか関係なく、子供が好きなものを選ばせるべき」という自分の考え方と真っ向から対立していて、事あるごとに衝突することになる。子供の世代に古き悪しき価値観を植え付けないことが自分の親としての使命だと思っているのに、子供から最も近いところにそれを阻む「ラスボス」がいるというのは皮肉という他ない。この果てないラスボス戦への消耗もまた、ストレスとなっている。

 

このように、育児には多くのストレスが立ちはだかっている。しかし、子供の存在自体がストレスという訳では毛頭ないし、子供が言うことを聞かないのがストレス、という発想は自分にはない。子供が親の言うことに従わないのは自然であり当然のことだ。自分もああしろこうしろと言うことは言うが、従わないからといって怒ったりは基本的にしない(ただし、「子供に甘い!」と批判する妻へのパフォーマンスとして怒る振りはする)。こうしたストレスとうまく付き合っていくための試行錯誤を続けるうちに、いつの間にか子供は大きくなって自分の手を離れていくものなのかもしれない。

 

(140分)