自己承認の罠

自分は、他者からの評価を得ることなしに、自らの納得によって自分自身を承認することが出来る。人から褒められたいと思って何かすることも、富や名声のために成り上がろうとすることも、「いいね!」や称賛のコメントを欲しがることも、周りに同調した行動を取って安心を得ようとすることも、誰かのようになりたいとか誰かに勝ちたいとか思うこともない。また同時に、周りの人の視線や反応はいちいち気にしないし、人との競争に負けてもそれ自体は悔しくないし、自分の信条に基づく言動を笑われたり非難されたりしてもそれに動揺することはない。自分の価値尺度は、人との比較に基づいてはいない。自分が自分自身のことを認められるかどうか、ただそれのみが自分の行動の良し悪しの基準なのである。自分の中に物差しがあるのだ。だから、どんなにダサイ格好をしていても、時代遅れの道具を使っていたとしても、友人が少なく恋人がいなかったとしても、人との比較においてそれを気に病むことはない。幾多の挫折や、不毛な争いを経て、自分はそういうメンタルを持つに至った。ややもすれば独善的なくらいに、この姿勢は徹底している。ただし、自分の考え方が絶対に正しいとは全く思っていないし、自分の都合さえよければそれでいいとも思ってはいない。人の姿勢や意見を参考にして合理的であると思えばそれは柔軟に取り入れるし、周りの人と不要な摩擦(どうやっても意見の合わない人と「分かり合おう」とするのは時間の無駄)を生まないように一時的に表面を取り繕う配慮も持ち合わせている。それに、人との勝ち負けは気にしないが、自分自身との勝ち負け(決めたことを守れたか、以前より優れているか等)にはむしろこだわるほうである。このように、自分は自分の人生を、他者との競争・比較ではなく、自己との競争・納得によって生きようとしている。


こうした人間は、「自立した個人」という意味合いで評価すべきであろうか。いや、自分はそうとは思わない。自分のような存在が、異端であるとされるほうが、むしろ社会の存続にとっては効果的であり必要なことであるとさえ思う。なぜなら、個人が周囲の言動に扇動されなくなると、社会・世間を意図的に誘導することが出来なくなるからである。社会を一つの方向に動かす何かのムーブメントや、新製品・サービスのブームを起こそうとしたら、日本人に色濃い「他者との同調」という行動原理を利用するのが一番手っ取り早く簡単なことだ。これが通用しにくくなると、企業の宣伝やマーケティングの効果は極めて小さくなり、政府が政策的に何かを実現することが極めて難しくなる。親や近所の人が「いい年して結婚もしないでどうするんだ」と圧力をかけてきても、歯牙にもかけない人が増えては、生涯独身の人が増えて日本の人口減少は加速する一方だろう。「結婚は人生の墓場」という格言が仮に真実だったとしても、社会としてはそれを認めるわけにはいかないし、結婚してこそ一人前という意識を醸成しなければならない。社会が社会として存続するためには、他者との同調を重視し、浮くことや嫌われることを恐れる感情が個人個人の中に存在することが、重要な条件となる。従って、自分のような考え方の人間は、社会的に評価されないし、されるべきでもないのだ。そういうことを言う奴は単なる強がりであって、必ず不幸になるし、年を取ってから後悔する…ということにされないと、社会的につじつまが合わなくなる。だから、自分はそれをわきまえて、自分のこうした考え方をあまり大っぴらにしないように慎ましく生きて行くつもりだ。

(70分)