若者の就職難と人材育成における学校教育の役割

 1990年代初頭のバブル崩壊後、日本の企業では業績の悪化や先行きの不透明感から、正社員の新規採用を絞り込む傾向が続いてきた。2000年代半ばの景気回復期に若干の改善が見られたものの、08年秋のリーマン・ショック以降は再び悪化に転じている。そのため近年、若年層の雇用問題が社会的に極めて重要な課題として注目されてきている。若者の雇用問題は、社会が必要とする人材像と、学校が社会に輩出する人材との間の、意識や能力のミスマッチから生じるものであり、詰まるところは日本における人材育成の問題だと言うことができる。本稿においては、現在起きている若者の就職難の状況と影響を概観し、それを招いた企業と学校の問題点を追求するとともに、社会の要求を満たす人材育成に向けた今後の学校教育の在り方について考察することとする。


 まず、現在の若者(特に大卒者)の就職難に至る経緯について考えてみたい。90年代半ばから、企業は業績の悪化や、それに伴う事業の統廃合等への対策として、新規採用人数の抑制を行なってきた。採用人数の減少により、求人倍率が低下したことで、就職(採用)市場は企業優位の「買い手市場」へと大きく傾斜した。企業は、それ以前に比べて採用者をより厳選するようになり、自社での研修・教育コストを圧縮するため「即戦力」として採用後すぐに活躍できる「優秀な学生」を求めるようになった。そして限られた優秀な学生を他社に先んじて獲得しようという動きが年々加速していき、就職活動は大学3年次の夏から始まると言われるほどにまで早期化・長期化が進んだ(現在はわずかだが選考開始を遅らせる動きが見られる)。それと同時に、企業が学生に求める能力はますます高度化した。新興国企業の躍進により、生き残りをかけた国際競争が激化していく中で、企業は「コミュニケーション(意志疎通)能力」、「チャレンジ(ハングリー)精神」、「主体性」、「行動力」といった複数の能力を、高いレベルで兼ね備えた人材を求めるようになった。これらは、知識の教授、技能の習得を中心とする従来の「受身型」というべき学校教育においては養成されにくい能力である。かつては他者との関わり方を学び人格形成を担う場であった地域社会や家庭における教育の存在感が弱まる中で、学校が輩出する人材は次第に企業の求める人材像から乖離していき、それが採用における一層の厳選化を招いた。加えて、大学進学率は90年の36.3%から11年には56.7%へと上昇の一途をたどり、少子化の一方で大学生の数は増えていった。また、企業は外国人留学生にも門戸を開き、海外での人材募集を行う例も増えてきている。こうして、少ない採用枠を多くの学生が奪い合う構図が定着した結果、卒業後に正社員として就職することができず、フリーターや派遣社員といった非正規雇用の形態で就業せざるを得ない若者が増えた。就職を希望しながら卒業時に就職が決まっていない人は11年春に7万5千人と、3年で倍増し、15〜34歳の約170万人は正社員を希望しているのに非正規労働を余儀なくされている。新卒一括採用が一般的な日本においては、卒業後に一度非正規雇用になってしまうと、その後に正社員になることは難しい。こうした採用抑制の傾向は景気変動による一時的なものではなく、人口減少による国内市場の収縮という日本の長期的な社会構造の変化や、新興国の台頭による国際競争の熾烈化に起因するものであるため、今後好況により自然に改善するということは期待できない。若者の雇用の安定は、社会の持続性の基盤を成すものであり、この問題の放置は国の根幹を揺るがしかねない。


 上述したように、この問題の原因としては、2つの側面から考えることができる。一つは、企業の人材育成能力の低下である。従来は、採用後の自社内での教育(OJT)が重視され、終身雇用の前提の下で、時間をかけて人材を育成する方式が一般的だった。そのため、採用前にはそれほど高い能力は問われず、工業高校等で一定の資格や技術を身につけ(手に職をつけ)れば、あるいは偏差値の高いブランド大学に入れば、安定した就職先を得られるということが社会一般に信じられていた。だがこうした状況は、90年代から2000年代にかけて一変した。コスト削減が進められる中で、企業の教育訓練への支出額は、08年に約3、300億円となり、ピーク時の91年の8分の1にまで激減した。これは、企業が人材育成を担う余裕を失ったことを意味し、その機能は就職前までの、大学までの学校教育に委ねられることになった。そして、こうした状況を招いているもう一つの原因が、企業が人材育成を期待する学校側の対応の遅れである。企業は決められた問題を解くための暗記型の知識よりも、答えのない問題の答えをチームで見つけていくような作業をできる、対話力や応用力、バイタリティを持った人材を必要としている。そうした人材の育成には、ディスカッションやプレゼンテーションを通して、自らの意見を異なる認識を持つ他者に伝え、議論を交わしつつ、共通理解を得るといった経験の地道な積み重ねが欠かせない。だが、日本の高等教育を担う大学では、依然として昔ながらの大人数講義や、週に数コマの申し訳程度のゼミが中心的である。また学生自身も、異なる他者との交流を苦手とする者が増えていると言われ、学内外で多様な経験を積む機会は失われている。そうした視野の狭さが、学生の大企業志向や公務員志向に繋がる一因でもある。企業のニーズに応える人材育成が不十分であるのみならず、学生の就職支援でも大学間でノウハウやマンパワーにばらつきがあり、十分に機能しているとは言えない状況だ。大学にも淘汰の波が押し寄せている中で、学生に入学当初から明確な就業観やキャリア意識を持たせ、在学中に社会で通用する能力(社会人基礎力)を身につけさせることは喫緊の課題となっている。


 このように、現在の若者の就職難は一朝一夕では解決できない根深い問題となっている。この現状に対して、打開に向けた方策は2つ考えられる。一つは、学生に中小企業へ目を向けてもらうことである。大企業も中小企業も厳選採用であることには変わりないが、中小企業のほうが人材の不足感が強く、求人倍率も高い。しかしこれはすでに就職活動期に入った学生、また既卒者向けの対策であり、抜本的な解決にはならない。より重要となるもう一つの方策は、企業のニーズに応える教育の充実である。04年に開学した国際教養大学秋田市)は、ほぼ全ての授業を英語で行い、学生に寮での外国人留学生等との共同生活や、1年間の留学を義務づけるなど、国際社会で通用する人材を育成するための先進的なカリキュラムを実践しており、開学から間もないながら、多くの企業から熱い注目を集めている。また文系人材に比べ理系人材には不足感があり、企業内での技術継承を危ぶむ声もあることから、研究開発等を担う高度な素養を持った理系人材の育成を掲げる高校、「スーパーサイエンスハイスクール」が02年から登場している。ただ、学校が提供できる学びの環境にはどうしても制約がある。教育課程で一定の就業力を養成しつつも、多彩な個性を持った人材を輩出するためには、ボランティア活動で地域と関わったり、海外で異文化に触れたりすることによって、学生が自発的に学ぶ機会が重要だ。そうした活動に消極的な学生に対して、意識を変えるよう訴えていく必要もある。もちろん、大学は「就職予備校」ではない。学問の府として、研究機関として果たすべき役割は大きい。ただし、全ての大学がそうある必要はないはずだ。大学進学率が5割を超えている以上、大学生と一括りに言っても、その学力や能力にはかなり大きな差があるのが現実だ。旧帝大や一部の私立大学は引き続き高度な教育研究機関として学問の最先端を走る役割を担い、その他の大学は「うちに入ればこうした人材になれます」といった明確なミッションを打ち出し、人材育成を第一に掲げて差別化を図ってもいいのではないだろうか。卒業までの目標を示し、入学の段階から一貫性のある教育を行うことが、企業の求める人材、社会で活躍する人材を育成するための抜本的な解決策となるはずである。


 人材の育成は、今や学校教育が中心的役割を担うものとなった。とりわけ、大学には大きな期待と、厳しい視線が注がれている。大学は卒業生の質を保証するために、様々な改革をドラスティックに進めなければならない。また、すでに卒業してしまった人たちが再チャレンジの機会を得られるように、新卒偏重の社会制度を改革することも必要だ。現在起こっている若者の就職難という問題は、若者だけの問題ではない。消費の低迷や更なる少子化を招き、社会保障の持続性を危うくするなど、全ての世代に影響を与えるものである。日本の将来を左右する大きなテーマとして、社会全体での活発な議論が望まれる。


<参考文献>
大久保幸夫 編著『新卒無業。』東洋経済新報社(2001)/常見陽平『就活格差』中経出版(2009)/日本経済新聞2012年7月16日朝刊☆12版/文部科学省「学校基本調査」


(600分:7/16〜21)
※原典:とある事情で書いたレポート