FB 2009/04:大学とはどんなところか

2009/4/13(月)


新1年生のみなさん、ご入学おめでとうございます。在学生のみなさんは進級おめでとうございます。



今回はまず、単位の説明の前の序論として、特に1年生の方に向けて、自分なりに、この大学が、どのようなところであるかを、お話ししたいと思います。



第一に、大学は自由なところです。講義の取り方、時間割の組み方も自由、取った授業に出ないのも自由、勉強しないのも自由、起きる時間、寝る時間も自由、友達を作るも作らないも自由です。基本的に何かを「強制」されることはありません。一人暮らしを始めた方は、これらと相まって特に開放感が大きいと思います。しかしこれがいいことかというと、一概にそうとは言えません。それはなぜか。


なぜなら第二に、大学は自由と引き換えに、自分の行動に責任を求められるところだからです。高校までは、自分のことを常に誰かが見てくれていました。親や、担任の先生や、クラスメイト、近所の人といった人たちです。 そうした人たちは、時に自分が求めなくても、困ったときは自分のことを気遣って、手を差し伸べてくれたり、失敗しないように守ってくれたりしたと思います。そうした人たちは、ある程度「与えられて」いた存在だといえます。しかし大学には、そうした存在は与えられていません。固定された特定の「クラス」といえるようなものもありませんし、「どうした、そんな顔して」と声をかけてくれる担任の先生もいません。体育祭や球技大会、修学旅行なんてものもありません。ほとんど全員が知らない人、という環境に突然一人放り込まれることになるわけです。これは自分で、自分の面倒を見て、自分の力で人間関係を一から築いていく責任を求められるということなのですが、特に今まで人間関係を受動的に築いてきた人にとっては、これは大きなハードルとなります。友人を「作る」ということが苦手で、高校まではクラスがあったおかげで自然に友人が「出来た」という人にとっては、同年代とはいえ知らない人に話しかけることへの抵抗感は小さくないはずです。しかしそんな困っている人が、「困った」という顔をしていても、誰も助けてはくれません。何か失敗しても、その付けを払うのは、常に自分自身です。つまり、こういうことです。



第三に、大学は基本的に何もしてくれないのです。自由すぎて、自分を助けてくれるシステムさえ用意されていないということなのです。学生の身分を与えたら最後、出るまでただ傍観するのみです。もちろん、求めれば多少対応をしてくれはします。大学の先生に相談すれば、悩みに答えてくれる先生もいるでしょう。しかし、基本的に「叩けば音が返ってくる」ということでしかありません。なぜそんなに、この大学は学生(大学では「生徒」とはいいません)のことを今までのように「構って」くれないのでしょうか。他の大学ではもっと学生に面倒見よく、積極的な対応をしてくれるところもあるというのに。それはこの大学の理念が「自律と創生」だからというところに理由があります。自分で自分を律し、自らの人生を作り出していく力強さをもった学生を育むことを目標としているから、自分で行動しない人には助け舟を出してはくれないというわけです。確かに、社会に出ていくための最終準備としては、それくらいは当然かもしれませんし、ある程度必要なことではあるでしょう。しかし私は、その手段として現状とられているのは、ただの「放任」であり、この理念を実現するのにかえって妨げとなっているのではないかと思います。いくら「自律と創生」といっても、何もない状態で大学に放り込まれて、いきなりそうした力がつくはずがありません。一人で大学というフィールドを攻略していく方法も分からない学生を放置することは、赤ん坊を真冬の雪山に放り出しておくようなものです。高校までのような「介入」はせずとも、方法の「教示」程度は最低限必要ではないでしょうか。食べ物を獲ってきてあげるのと、食べ物を獲る術を教えるのとでは全然違います。後者は誰もが必要なことで、それは単純に助けるのではなく、自分で道を切り開かせるためのものです。残念ながら、この大学、というか当大学の経済学部は、後者さえ怠っているといわざるを得ません。ですから、大学は当てにしてはいけません。それまでは受動的に生きてきた人も、一念発起して自分で動かなければならないのです。そこでどうするかということですが。


第四に、大学は様々な可能性が広がっているところです。大学には約10000人もの学生が全国から集まっています。多くの人と触れ合える環境に身をおきましょう。接する人の数だけ、自分の視野は広がり人間としての魅力も磨かれていきます。色々な活動に取り組んでみることで、自分の可能性は膨らみます。ですから出来るだけ、大学の内外を問わずサークルや部に参加したほうがいいでしょう。引っ込み思案な方も、4月、5月なら各団体とも積極的に勧誘をしていますから、比較的飛び込んでいくハードルは低いと思います。これが一年経ち、二年経つと、どんどん壁が高くなってしまうので、早いに越したことはありません。またサークルなどに全く入らないというのは、自分の将来の可能性を狭め、自分の成長のチャンスを失う(あるいは自分を退化させうる)ことですので、おすすめしません。経験上それは間違いないです・・・。自分は今の自分のままでいいや、と思っても、就職するとき求められるのは、「大学に入って成長した人」ですから、成長していないと就職することすらも難しいです。ですから、平凡に順調な人生を送りたい方は、他の人がそうであるように、何かしら、人と一緒に何かを成し遂げるという経験をして欲しいと思います。何もしなければ「普通」にはなりえません。他の人がするのと同じ努力と苦労と経験をして、ようやく「普通」になれるのです。まずは「凡人」として認められることを目指しましょう。何も出来ない人は凡人未満ですから、凡人になれた人は、それを誇っていいと思います。最初は面倒くさいと思っても、結局は行動した分だけ、あとで必ず自分の助けとなるものが身につきます。なので、ぜひ、自分の将来という長期的な展望を、漠然ながらも着実に描きながら、大きく前へ進んでいって欲しいと思います。みなさんが、実りある大学生活を実現されることを切に願っています。


(原典:HP)


*フラッシュバック 第4回*

始まり方が唐突で、全体が大学の新入生への呼びかけの形を取っているのは、この文章がかつて、自分が開設した過去問HPに掲載されていたものであるためである。この記事は「単位取得講座」と銘打ったシリーズのうちの第2回として書かれたもので、単位の仕組みやCAP制の上限を超えて単位を取得する方法等について、自分の経験を生かして色々と指南する内容になるはずだったが、次第に自分に余裕がなくなったことから計画は途中でとん挫し、わずか4回で打ち切りとなった。そんな経緯がある訳だが、改めて記事を読んでみると、自分が大学に対して感じていた不満や不信感がこれでもかというくらいに強くにじみ出ていて、当時の自分の意識が非常によく伝わってくる。大学の昔ながらの放任主義な姿勢に対して、不満を募らせていたことがよく分かる。確かに、進学率が上昇し、学生が必ずしもモチベーションやバイタリティを持っている訳ではなくなった今の時代にあって、そうした大学の姿勢はいささか時代錯誤ではあった。しかし、その大学の問題以上に、自分が無責任で無目的的であったことが、自分が大学生活につまづくことになった大きな原因であった。文章を読んでいると、自分の責任を大学になすりつけようとしているように感じられる。しかし、そうして大学を「敵」にすることによって、「自分が悪い」というふうに過剰に自責の念を深めるのを防ぐ効果もあったのかもしれないので、それが間違った考えだとも言い切れない。そのようにして、大学のことを嫌ってさえいた自分が今、大学職員という職業についているというのは、全く不思議としかいいようがないし、働いている中でも日々大学に対する不満を抱いているが、それゆえに「このままではいけない。変えなくてはならない」という気持ちを強く感じている。不満や疑問こそが変革を引き起こすための最大のエネルギーなので、自分のような経験や意識を持つ人間が職員をやっているというのは、あながち間違ったことでもないと思う。自分の甘さを反省すべきところは反省し、指摘の価値を見直すべきところは見直して、この記事に書かれた「一学生の視点」を、今後の職員としての仕事に役立てられるよう活かしていければ、当時の自分も少しは報われるだろう。

(60分)