パートナー

自分の人生にパートナーが必要かどうか、という問題について。


パートナーがいれば、社会の伝統的な価値観、家庭像を踏襲する人生になるだろう。自己の選択によって形作られてきた人生は、それをきっかけに外部要因に大きな影響を受けるようになる。そして、起伏に富んだ、悩みと困難が尽きることなく襲来し、報われないことも多い、しかしその分だけ喜びも多いかもしれない、退屈しないものになると考えられる。ただし、自分にはどうしても他人事にしか感じられない、フィクション染みた人生である。自分のこれまでの人生において、「人並み」と言えるような状況に到達したことはなかった。学生生活、社会生活、私生活において、多くの人がしているであろう種々の経験を犠牲にすることによって、自分は今の自分を手に入れた。それゆえに、自分の考え方は基本的に世間一般の感覚とはズレてしまっているから、最も大事なことだという「価値観の共有」も図れそうにない。


パートナーがいなければ、今の自分の価値観、自分像を今後もそのまま貫く人生になるだろう。永遠に完成せず、最後には跡形もなく無に帰す自分を高めるために、自分の時間を自由に充てることが可能になる。社会の伝統的な価値観では、肯定的な評価は受けないだろうが、かといって強く指弾される恐れも小さい、同業者が現在急増中の人生である。一見すると生物として不自然な行動とも思われるが、人類全体を一つの生物と考えて、全体の細胞数を一定に保つために一部の細胞がアポトーシスを起こしていると捉えれば、さほど不合理なことではない。家族や社会から育ててもらうという恩恵だけを受けて、次の世代に対して自分が受けたのと同じことをしてあげる責務を果たさない点については、そしりを受けても反論は出来ないが、だからといって責務を果たさないことが罪というほどの重いものでもないと思う。それは道徳的な問題であって、個人の選択の合理性とは関係ないからだ。この先の展望が描きやすく、単純化された人生である。こちらのほうは、「だよな」という感じで自分にはしっくりくる。


自分の人生は自分で切り拓いていくものだと思っている。しかし、他者とクロスする部分については、自分の意思だけではどうにもならないことでもある。そこは、因果応報の原理で、何か大きな力が働いて決まってくることなのだと思う。自分のこれまでの選択や行動の積み重ねを基にして決まることだから、大きな流れとしては動かしようがないことだ。だから、なるようにしかならないし、無理に抗っても仕方ないと思う。上述のいずれの人生になるかは、陳腐な表現に逃げれば、天が決めることだ。どちらに転んでも待ち受けているのは試練であり、自分はその結果を素直に受け入れるが、自己評価では後者になる公算が非常に高いと見込まれている。前者の人生が展開するために影響を与える選択肢をこれまで全く選んでこなかったからだ。これは心理学上の原因論か目的論かという議論の問題ではない。もっと大きなスケールでの問題である。日常的な場面では、自分は目的論を支持しているが、このスケールにおいては、原因論的な立場に立たざるを得ない。過去の歴史とは全く無条件に未来が決まるなら、この世界の道理は根底からひっくり返ることになってしまう。自分はそんな無責任で無鉄砲な未来には来て欲しくない。


結論としては、「自分はどちらでも構わないし、どうなったとしても、運命であれば後悔しない」ということになる。人生の良し悪しは、全て自己評価で決めるべきである。人と比べてどうこうと、他者から言われる筋合いはない。自分が納得すれば、それでいいのだ。どう転んでもいいように、いつ終わってもいいように、ただ今日を精いっぱい、一生懸命に生きる。それさえ出来ていれば、もう将来のことをあれこれ心配する必要はない。

(60分、11/23)