教師の資質

うちの大学には、将来の職業として教員を目指す学生が来ているわけだが、「お前、本当に『先生』になるつもりあるのか」と問いただしたくなるような者も中にはいる。ルールやマナーをきちんと守っていない学生は当然それに当てはまるが、字が猛烈に汚い学生に対しても本気で目指しているのかと疑いたくなってしまう。どちらも、子どもの見本足りえないと思うからだ。


学校は、子どもに教科書に書かれたことを教えるためだけにあるのではない。当然のことながら、社会におけるルールや常識、他者との接し方、集団行動の仕方など、様々な技術や能力を涵養する場でもあるのだ。子どもにとって、学校を中心とする世界には、大人が思っている以上に多くの学びの機会が存在しており、日々新しい知識や考え方を身につけて成長している。その中で、子どもの人格形成に大きな影響を持つのが教師である。特に、小学校と幼稚園の初等教育段階の子どもにとっては、学校の先生、その中でも特に担任の先生は、家族の次に身近な大人であり、先生のあらゆる行動が子どもの人格形成に影響を及ぼしうることは否定しようがない。中学生以上の子どもであれば、悪い見本を見せて文字通り「反面教師」にさせるのも一つの方法論としてありうるかもしれないが、初等教育においては、基本的に先生はいいお手本でなければならないと自分は思っている。漢字の書き順、言葉遣い、交通ルール、挨拶、箸や鉛筆の持ち方、座るときの姿勢、身だしなみ・・・極端なことを言えば、子どもの前で振る舞うありとあらゆることにおいて模範を示せるようでなければならないとさえ思う。つまり、初等教育において教師に求められる能力とは、「知識を分かりやすく教えられること」と「全人格的な優れた素養を身につけていること」であるということだ。前者は誰でもテクニックや勉強で高めることができ、客観的に評価することが可能な能力であるが、後者は大人になってから意識的に身につけることが難しい、幼いころからの習慣や心がけが重要となる力であり、しかもどこまでなら合格という明確な線引きのできない領域の力である。それを簡潔に表現すれば、「徳」という言葉が当てはまる。どこまで行っても天井のない、生涯の精進、切磋琢磨を必要とする力である。だから、教員を目指す学生には、子どもの範足りうる素行に優れた人格者であって欲しいし、例えそれに未熟さがあったとしても、志の面では強い決意を持っていて欲しい。そして、教員になった後も、様々な分野に興味を持ち、行動し、不断に自分を高める努力を続けて欲しいと思っている。それは極めて高いハードルかもしれないが、多くの人の人生に影響を与える立場に立つことになるのだから、それくらいに強い覚悟と責任感を持つことはむしろ欠くべからざるものであるはずだ。子どもと一緒になって活動するための元気さや快活さ、子どもの気持ちを理解して心を通わせる思考の柔軟性や感受性の高さも必要だから、元気なことはよいことではあるが、教師の立場から子どものことを理解するのと、頭の中が子どものままであるのとは天と地ほどに異なることである。社会のルールを守れていない学生には、もう少し節度を持って行動して欲しいと思わずにはいられない。


自分が大学生の時も、「本当にこいつら教育学部の学生なのか」と目を疑いたくなるような容姿、言動の学生がいて気になっていた。自分の考え方が古いのかもしれないが、腰パンをしているような学生が果たして生徒指導を出来るのかと甚だ疑問に感じていた。そして、学部を問わず、指定場所以外で喫煙する、図書館で騒ぐなどルール違反をしている学生が目につくことに憤りを感じると同時に、それを注意しない大学の教員や職員に対しても「何で何も言わないんだ」といら立ちを募らせていた。それゆえ、自分が職員になったら、そういうけしからん学生はビシバシ指導してやろうと思っていたのだが、いざなってみると職員というのは立場が弱く、自分自身も当初の志が衰えて、あまり表だって声を上げることは出来ずにいる。情けないものである。業務上の直接の関わりはほとんどないとはいえ、自分も職員の一人、大学の一員として、学生を育てることが仕事であることを忘れてはならない、とは思うのだが・・・。初志貫徹の難しさをひしひしと感じている。

(100分)