リスクとハザード

大学2年のとき、環境経済学のゼミに入って一番最初に講読したのが、中西準子著の『環境リスク学』という本だった。前半は著者の研究者としての半生について、後半は世間を騒がす環境問題について、著者が「リスク評価」という観点から思い込みや常識を排して科学的に危険性を考察する内容となっている。


環境リスク学―不安の海の羅針盤

環境リスク学―不安の海の羅針盤


当時の自分にとっては難しい内容で、細かい部分までは理解しないまま読んで、レジュメを作っていたが、唯一頭の中にしっかり焼きついたのが「リスクとハザード」という考え方だった。厳密な定義は難しいが、ハザードは危険性・毒性のこと、リスクは危険が実際に起こる確率のこと、というふうに自分はざっくりと理解している。説明は一切省くが、この考え方に自分は多大な影響を受け、それ以降は、ハザードの有無ではなく、リスクの大きさで物事の危険性を判断するようになった。ダイオキシンBSEだけでなく、自動車も、空気も、水道水も、極端な話をすれば、世の中のほとんどのものは何らかの意味合いでハザードであるとも考えられ、それらが実害を及ぼすリスクについて考えるときには、それが発生する確率という観点から危険性を評価しなければならない・・・といったふうに、環境汚染や有害物質や食べ物が自分の健康に及ぼす影響を「確率的事象」として捉えるようになった。ここで大事なのは、危険について「0か1」かという二元論ではなく、「閾値」で評価することである。


例えば、放射線のリスクについて考えてみたい。放射線は浴びると健康に害を及ぼす正真正銘のハザードである。ただ、自然界でも常に宇宙や地中から飛んでくるため、平均で年間1ミリシーベルト程度は被曝すると言われている。これは全ての人が否が応にも「許容」しているリスクレベルだと言えよう。そのため、飛行機の搭乗やレントゲンによる要因を捨象して単純に言えば、年間の積算放射線量でこのレベルであれば社会的認識としては「安全」だということになる。年間1ミリシーベルトを浴びる水準は、1時間当たりでは0.114マイクロシーベルトになる。今朝の新潟日報によれば、新潟県内の放射線量は19日午前9時〜20日午前9時の間の最大値で毎時0.050マイクロシーベルトなので、年間だと0.5ミリシーベルト以下であり、胸部レントゲンを2、3回受けても十分お釣りがくるくらいの低さである。そのため、自分は日常生活において、今回の原発事故による放射線の影響については心配していない。ただ、重要なのは、上の「安全」とはあくまで1ミリシーベルトを「閾値」として考えたものに過ぎないということだ。日本人の死因を例にとれば、1ミリシーベルトであれば、10万人中3万人程度ががんで死ぬ水準であるということで、1ミリシーベルトなら死なないとか、がんにならないということでは全くない。当然の話である。この程度の危険であれば、誰かが病気や事故に遭う可能性はあるものの「安全」なレベルとして危険を許容するという水準のことを、閾値という(と自分は理解している)。1ミリシーベルトは平均的な日本人の死因に影響を与えない程度の危険であるということだ。では、これが2ミリシーベルトだと途端に「安全」ではなくなるのかというと、そういうわけでもない。統計的根拠のない全くの仮定の数値を用いて表現すれば、1ミリシーベルトだと10万人中30000人ががんで死ぬところが、2ミリシーベルトだと10万人中30001人が死ぬことになる「かもしれない」という程度の違いでしかない。誤差と区別のつかない微々たる差であると同時に、あくまで「かもしれない」なのである。なぜなら、放射線ががんを引き起こす可能性は、全くの確率的事象だからである。これだけ浴びたら何人が絶対にがんになるという単純な関係にはない。肺がんで考えると分かると思うが、20歳の時から1日10本吸い続けて40歳で禁煙しながらも50歳で肺がんで死ぬ人もいるし、15歳から毎日30本吸い続けていてもまだ何の病気にもかからずぴんぴんしている80歳の人もいるというようなことと同じ話である。また、被曝した放射線量と発生したがんの因果関係を証明することもそもそも難しい。たいていのがんは、複合的な要因で発生するため(たばこと肺がん、アスベスト中皮腫のように因果関係がはっきりしているほうがむしろ稀)、原因が分からないことのほうが多く、被曝でがんになる確率というのを厳密に求める研究や調査というのは相当困難なものと思われる。だから、2ミリシーベルトでただちに1ミリシーベルトより危険が増すということは考えにくいし、逆に言えば(何らかの超技術によって)年間に0.1マイクロシーベルトしか浴びなかったとしてもがんになる確率は決してゼロにはならないのである。したがって、行政が「この程度なら安全です」と言って示す放射線量は健康への因果関係が学術的・統計的に説明できない水準、という捉え方をするのが妥当であると思うし、閾値をどこに設定し、どこまでを「安全」とみなすかは、究極的には個人の判断によるといってもいいかもしれない。


日本人はとかく、安全か危険か、健康にいいか悪いかという二元論的な考え方をしがち(宗教的には多神信仰に寛容なのに何でなのか不思議)であるが、世の中そんなに単純明快には出来ていない。何より人間自身が、善人か悪人かなどという区切りで分けられないではないか。ぜひ、多くの人に科学的にリスク評価を行って自己判断する考え方が広まって欲しいなぁ、としみじみ思う。


(110分)
※本文中には疫学的、論理的、環境リスク学的に必ずしも正しいとは言えない部分が含まれている可能性が多分にありますので、専門家ではない個人の認識としてご容赦ください。