鎮魂

東日本大震災の起こった日から、今日で丸1年。テレビでは、NHKはもちろん、民放各社も、震災関連の特番を放送していた。自分も半月くらい前から今日のことをずっと意識していたので、地震の発生した14時46分には、自宅の2階から北東の方角を向き、1分間の黙とうを捧げた。災害の犠牲となった2万人近い死者・行方不明者の無念さと、残された家族や知人の方たちのことを想うと自然と涙がこぼれてきたが、黙とうの後は、泣いたって何も変わらない、前向きにならなくちゃと思いを新たにした。


震災から1年経って、考えたことは色々あった。大災害に襲われながらも団結し立ち上がろうとする人々の姿を見て勇気づけられ、また自分も何かしたいという思いに駆られ、自分の中の「日本人」としてのアイデンティティが強くなったように感じたこと。反対に、被災地の直面する現実に対して「人ごと」かのごとく冷たい反応を見せる人たちがいることへの、悲しさ。絶対に安全ではなくても、より重要な価値と秤にかけて必要であれば一定のリスクを許容するという考え方に基づき、放射線のリスクを「正しく恐れる」ことを一般の人々が実践することの難しさ。政治家やリーダーを選ぶときに、「緊急事態への対応能力」という観点が全く欠如していたために、妥協の産物で選ばれた首相や閣僚が震災直後の対応で混乱を来し、事態を悪化させる一因となったこと。原発が事故を起こしたのは、科学技術に絶対的な信頼を寄せる安全神話があったからではなく、「かもしれない運転」ならぬ「だろう運転」で安全の徹底をおろそかにしていたからであって、それは社会が有事を想定していない(たびたび戦争をしかけテロの脅威にさらされている欧米とは危機意識が大きく異なる)日本全体に言えることであること。津波がもたらした環境破壊とがれき処理の困難さのこと。その他にも、考え始めたらいくら書いても言葉は尽きないし、どれだけ言葉を尽くしても、答えが出てくるものでもない。だから自分は、ただ次のことだけを、明確に決意し、行動したいと思う。それは、「震災復興を経済活動によって支援し、自分自身も次の震災に備えた準備を進める」ということだ。自分は寄付やボランティア活動のような無償の支援よりも、一層直接的で相互利益的な支援をしたいという思いから、1月より毎月1回、被災地の産品をネットで購入する取り組みをしている。心のケア、日常生活の補助といった人的支援ももちろん欠かせないが、それは誰もが出来ることではない。一番シンプルで手っ取り早い支援手段は、経済活動によって市場経済を通じて被災地にお金が流れるようにすることであると自分は考えている。いくら被災地のインフラや住宅が整備されても、結局被災した人たちの「仕事」がないことには、元の暮らしを取り戻すことも、将来の展望を描くこともままならない。だから自分は、被災した人たちの「仕事」を支えるための「需要」を提供することにした。年2回のボーナスの半額を原資とすることにより、被災地の産品を買い、原資の余り具合によっては被災地へと旅行する。そこでまた現地のものを買って、お金を落とす。それを今後もずっと続け、被災地を支え続けたい。そう考えている。また反対に、自分が何らかの災害により被害を受けたときのために、予め備えておく必要もある。災害時の持ち出し用品を用意しておくこと、記録データのバックアップを取っておき、いつでも持ち出せるようにしておくこと、自分が死んだときのために家族に向けたメッセージを書いておくことなど、備えるべきことは本当にたくさんある。どれも、すぐにでも取り組まなければならないことだ。震災1周年を機に、計画を立て、対策を加速させなければならない。


日本は災害列島である。東京、名古屋、大阪といった太平洋側の大都市は、どれも東北と同じ規模の津波に襲われる危険にさらされているし、実際にそうなればその被害規模は今回よりも遥かに甚大なものになる。東北で起きた大震災はまだ終わっていないが、その傷が癒える前に次なる大震災が起こる可能性は十分にあることを意識しなければらない。第1次大戦の終結から第2次大戦が勃発するまでの20年間を「戦間期」と言うが、今の日本はさながら「災間期」であると言えよう。そもそも、日本の歴史全てが、災害と災間期の繰り返しだったと言っても過言ではない。日本に生きる限り、その現実から逃れることは出来ないし、日本人である限り、当事者としてこの現実から目をそらしてはならないのだ。過去の日本人がそうしてきたように、自分たちも、例えどんな災害に襲われても、必ずそこから立ち上がり、復興するのだ・・・そう強く信じて、日本人同士で助け合いながら生きていく。そんな社会の実現を夢想してやまない。

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