FB 2009/06:大学生の就職希望企業ランキング



2009/6/17(水)

未だに志望動機が書けず、大学図書館に勉強にいけてません。

いつも一緒に勉強に付き合ってくれてるY君、呆れてるだろうな。

13時を回ってから電話を掛けてきたくらいですから。

何としても今日中に発送したいので、1時間以内に仕上げたいです。

ってかまだそんなに時間かける予定なのかよ!

さて、題名の件。

大学生にアンケートとっての、就職したい企業ランキング。

毎年、いくつかの就活サイトとかがやってますね。

NHKのニュースでも取り上げることがあるくらいメジャーになってます。

でも自分にとってあれは、世の中で最も信用できない情報の一つであります。

なぜかっていうと、すごく単純な話で、ただ、社会の内部を何も知らない学生にアンケートとったって、その企業の上っ面でしか判断できないだろ、と思っているから。

その企業の本当の価値(企業の製品・サービスや存在が社会に与える影響、労働者の満足度、環境対策の取り組み、株価、保有する技術や知識の稀少さなど)なんてものを反映したランキングになっているとは、とうてい思えないから。

どの会社だって、普通は外面をよくしようと気を遣ってるものです。

そのために広告で宣伝したり、イベントの後援をしたり、様々なPR活動をするのですから。

その外面にまんまとだまされて、っていう言い方は変ですけど、まさに企業の戦略的な「イメージ」を素直に刷り込まれてしまった人たちの考えが、そのまま反映されたのがああいうランキングだと思ってます。

だから「イメージ戦略の効果がよくでている企業ランキング」として、それはそこそこの意味を持つとは思いますが、自分の将来をかける企業を、そういうランキングで選んで、あるいは判断基準に影響されて、決めたいとは思いません。

だから興味がないんです。

自分は大企業より中小企業、国家公務員より地方公務員と思って、仕事について考えてきました。

自分をそんなに「デキる人間」とは思っていないので、身の丈にあった、自分で全てに手の届く範囲で、自分の仕事が影響を与えている人の顔が見える範囲でのやりがいのある仕事をしたい、地域に密着した仕事がしたいという思いがあって、いわば「鶏口となるも、牛後となるなかれ」という価値観から、就職先を決めたいと思っていました。

それが、県内にとどまろうと思った理由でもあります。

いやぁ、でも難しいなぁ。

仕事をしたこともない学生に、仕事を出来そうかどうかという物差しや、学校という枠組みがある中でこれまでどう自己成長を遂げてきたかという尺度をあてるのはやめて欲しいものです。

筆記試験だけで採用しろなんて暴論を言うつもりはありませんが、せめて一週間働かせてみてから面接を受けさせるというくらい、まずじっくりと、学生に「語らせずに」、その人の内面や外面を覗いて欲しいものだと思います。

そのあとで最後に面接をしたほうが、学生自身も実際に働いてみた結果を基にした、「自分の言葉」をいえるようになるのではないか、そう思いますね。

そのためには、一人5社までしか会社を受けられないとか、そういう条件が必要になってくるんでしょうし、今の状況から考えれば到底実現できそうにない夢のような話ですけど、企業と学生、お互いの本当に納得の出来る結果をもたらすためには、きっと必要なことだと思います。

んんー、難しいですね〜。社会って。




※フラッシュバック第2回※

<解説・反省>この日は上越市の志望動機を昼間一日かけて書いていた。でも全然書けなくて、散々考えあぐねた末、結局誰が言っても違和感のないような無個性でやる気の感じられない内容で妥協して、お茶を濁してしまったのだった。何でそこで働きたいのか、そこで何をして、どう人の役に立ちたいのか、そういう気持ちがストレートに心の中から湧き出てこなかった時点で、志望度というか真剣さはその程度でしかなかったということだ。第一志望だった市がそんなだったというのだから、全くお笑い種としか言いようがない。いくら人間として底が浅かったとはいえ、さすがに何考えてたんだかと思わずにはいられないし、その後暗礁に乗り上げるのはこの時点ですでに目に見えていた。当時の自分自身、それは感づいていた。


とまあ、自分を蔑むのはそこまでにして。この日は夜にフジファブリックのライブが新潟で行われたので、この記事を書き、志望動機を作った後、Y氏と共にそれを聴きに行ったのだった。ライブに行ったのはこのときが最初で最後。本物の志村が目の前に、卵を投げたら当てられるくらいの距離にいて、爆音が鳴り響いて、観客達が熱狂して腕を振ったり指を突き出したりしていて、それはもう非現実的な体験だった。そこはまさに幻想空間だった。でもそれをどう評価し、表現すればいいのか、自分はそれに適した言葉を持っていない。あれは二度と再現性のない、心の中ですら再現不可能な、本当に一度きりの現象だったから、言葉になんかできやしない。すごかった、楽しかった、感動した、盛り上がった、そんな言葉では全然ダメだ。もう全然ダメ。客観的事実としては、「ライブ会場を出たあとも耳に御椀をかぶせたみたいに『ぅわんぅわんぅわん』ってずっと耳鳴りがして、翌日いっぱいくらいそれが治らなかった」と書くことが出来るが、心象描写、情景描写となるともう何書いていいんだか。トランス状態だったわけではないけど、自分が何をしてるのかなんてことに気を払ってはいなかったから、何をしていたかもよく覚えていない。日記を書いていればよかったのかな。でも書いてないからそのときの気持ちは分からない。ただライブに参加したことに満足はしていたはずだ。おそらく幸せだったのではないだろうか。志村が亡くなった今、その体験は本当に唯一無二のものとなってしまった。


さて、肝心の記事本文だが、「やっぱり青かったな」というのが正直な感想だ。人向けに書いたものではないので、文体が不統一でどこかしら挑発的なのが気になるが、それは些細な問題であって、本質的な欠陥は別に存在している。それは「自分のことしか見えていない」ということ。企業にだって企業の考えがあるし、世の中の全てのものにはそれぞれ一定の合理性があるということを考えていない。学生だろうと、人間としての中身を問われ、過去の経験がその判断の物差しにあてがわれるのは自然であり当然なことだ。公務員試験であろうと、筆記試験は足きりに過ぎない。本質は二次の面接試験だ。企業がどんな人間を欲しいかというところに思いを致して、そこに焦点を当てて自分をアピールしようとしなければ採用されるわけがない。そういう「相手側の視点」が欠けていたと思う。ただ今の自分が過去の自分を批判できるほど立派な人間かといえば、全然そんなことはないので、批判はこの程度にしておこう。とはいえ、おおむねの主張には賛成できるのも事実で、就職人気ランキングが宣伝でしかないというのは実際その通りだと今でも思う。人それぞれ、自分が価値を置くものというのは異なる。企業の華やかな看板に目移りするよりも、一人ひとりが、自分の価値観を持って、自分の適性と考え方にあった企業を見つけていくのが、学生・企業の両者にとって利益となることなのではないかと思う。そして両者がより自然な形で歩み寄れるように、数十分の面接ではなく、インターンシップ的な(でも今のようなうわべだけのものではなく、実体験を伴う形の)もので採用の判断材料を得るというのがいい・・・とは思うけど、現実的にはコスト的に無理だ。社会全体でそういう制度を作って、国もそのコストを補助するような仕組みにしないと絶対無理。主張には納得するけど、現時点では暴論。ということにしておこうか。

(60分)