分かり合うことの不要性

「人と人とが、全面的に分かり合うことなど絶対に出来ない」、自分はそういうスタンスに立っている。何を言っても分かってもらえない人には分かってもらえないし、分かってもらおうとも思わない、という姿勢だ。この考えの主な利点としては以下の4点が挙げられる。


①対立を回避できる
「自分の考えは必ず相手に分かってもらえるはずだ」という姿勢でいるのは、一見博愛主義的にも思えるが、その実非常に暴力的なものでもある。自分の考えの絶対性を疑わず、やがては相手を力でもってねじ伏せようということになる可能性を秘めている。これが宗教戦争だとか、アメリカの「世界の警察」的妄信を生むことになる。「わかんないんだ、あっそ、じゃあご勝手に」というところで関心を失えば、お互いが対立するところまで発展することはない。


②多様性を許容できる
一神教というのは、ある神だけを信じ、それ以外の神を認めないことである。それが広がっていくということは、ただ一つの考え方に人々が支配されてしまうということでもある。一般的に多様性を失った社会というのは壊れやすい。古代ローマの崩壊は、自分はキリスト教を国教としたことが決定的だったと思っている(別にキリスト教に悪意はないが、歴史的事実の考察として述べている)。多様性を認めないと対立を生むことになるし、環境変化への適応能力も低下することになる。ウイルスは自分の単純なコピーを作ることで爆発的に広がるが、バリエーションが存在しなければ一種類のワクチンによって瞬く間に滅ぼされることになる。生物も社会も、永く存在し続けるためには、多くの種類に分かれていることが大きな役割を果たす。日本も同じだ。東京に全人口が集中すれば経済は発展するかもしれないが、それは地方の多様な風土や文化、伝統が失われ、歴史資源と人的多様性を喪失することを意味するし、仮に東京に巨大隕石か核ミサイルが落ちたらそれだけで日本という国が消えてしまうことになる。日本が世界にプレゼンスを維持し続けるための鍵は地方再生にかかっていると思うから、自分は地元に残り続けるのである。


③自分の信じるものを傷つけられずに済む
一般に、自分の大好きなものをけなされれば、人は傷つく。何で分かってくれないのだろう、自分は○○がとても好きなのに、それなのにあの人はなんて酷いことを言うのだろう…と憎悪や怒りの感情を募らせ、それが対立の火種ともなる。しかし、相手がそれを理解できないのだと結論付けて考えることを放り投げれば、非難されても痛くもかゆくもなくなる。「そういうことを言う人もいるよね」程度しか感じなくなる。自分は絶対的にこれが好きだ、誰が何と言おうと好きだ、別に分かってもらう必要はないし、分かってもらおうとも思わない、それと同時に自分の理解出来ないものを非難することもまたしない、相互不干渉で行きましょう…ということだ。これは妄信をそのままにすることでもあるが、それ以上蔓延することもないので、多様性を許容することになる。「人は人、自分は自分」という考えをとって以来、ネット上での過激な書き込みにも動じなくなったが、しかしそれが全く不愉快でないわけでもない(眉をピクリと動かすくらいは反応してしまう)ので、ネット上のコミュニティからは遠ざかるようになった。


④対人的労力を最小限に抑えられる
同じ考えの者同士で集まっていれば楽しいし、例え異なる考えの者がいたとしても、まあいいじゃないかとその人の考えも許容すれば仲良く付き合える。そうしたスタンスを取ることで、生ぬるい、いわゆる「なあなあ」な、楽な人間関係を構築するのが、庶民にとっての無難な生き方だと思う。ただ相手の立場を尊重するのは、それが自分に直接的に害を与えないものである場合に限られる。犯罪者や、非喫煙者のことを考えない身勝手な喫煙者に対しては、もちろん断固とした態度を取らざるを得ない。多様性を許容するからといって、社会的な悪までも認めるわけではないのである。


ここまで自説を展開してきたが、この立場を取るのはあくまで自分がこうした利点があると一人で信じ込んでいるからに過ぎず、この考え方が万人に通用する絶対的なものであるとは到底思っていない。そしてこれを人に押し付ける気もまた、さらさらない。分かってもらおうとは思わないが、一応自分の立場は明確にしておく。相手を批判せず、持論を強要せず、ただこういう意見もあるよと紹介するだけ。それで理解を得られるならそれもよし、分かってもらえずとも構わない。それが、人間関係を構築していく上での自分のスタイルなのである。

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