学校教育 その1

学校教育において、子どもたちに対して最終的に身につけさせなければないこと、それは集約すれば以下の2点に絞られると思う。


一つは、人から言われた通りに「勉強」するのではなく、自らの意思で「学ぶ」姿勢である。学校教育で教えられることの量や種類には、絶対的に限界がある。というより、むしろ教えることは本当に最低限の知識や素養でしかない。それは、教員の能力的制約、時間的制約もさることながら、密度の高い同内容の教育を義務教育課程で全員に施すことは、同じ知識と思考回路を有する人間を大量生産することにつながり、人間社会における多様性の保持を阻害する要因となるからである。同じような人間ばかりになっては、人と人との関わりや個人の独創的な挑戦から偶然的に新たな価値が生まれる可能性が縮小し、イノベーションは生まれなくなり、社会の活力は失われる。そもそも学校教育というものは、全員に同内容の教育を施すために最も効率的に機能する仕組みであり、子ども一人ひとりの適性に応じた可変的な教育や、多様性を醸成する教育を期待することは本来的になじまない。従って、人間社会が変化を伴いながら持続するためには、個人個人が自らの興味関心をきっかけに学校教育にはない多様な経験をし、そこから自ら学ぶことが不可欠となる。学校で教わることだけではおよそ人間として生きていくには不十分であるという認識と、必要な知識や技能については自ら学ぼうとする態度とを身に付けさせ、個人の能力の発達を本人の選択に委ねるのが、学校教育において最低限出来ることであり、しなければならないことである。学校教育にあれもこれもと多くの要求を押しつける人たち、「そんなことは学校で教わっていない」と不満を口にする人たちは、生きていくのに必要なことは全て学校教育で教えられることが当然かつ不可欠だという筋違いな思考に凝り固まってしまっており、それらはおよそ的外れな言説だと言わざるを得ない。


学校教育において身につけさせるべきもう一つのことは、教えられたことをそのまま覚えるのではなく、その真偽に疑問を持ち、様々な可能性の存在に気付くことが出来る思考的柔軟性である。これは科学的な思考と言い換えていい。世の中に絶対的な唯一正しい答えというものはおよそない。答えとされているもののほとんどは、「一番それらしい」「ベストじゃないけどベターではある」といった程度の妥協的産物であり、別のより真実に近い答えが存在する余地は残されている。そしてそれはどこかに誰かによって用意されているものではなく、自分で試行錯誤を経て作りだすものである。巷で真実とされていることであっても、これは実は違うのではないかと疑問を持ち、自らの手と目で確かめてみることが、情報過多の現代社会においてたくましく生きていくための最低限のスキルであり、科学における一番初歩的な素養である。コペルニクスガリレオの地動説など、科学の歴史における偉大な発見は、往々にして常識に疑問を持ち異を唱えたことから達成されている。科学が今後も新たな発見によって文明の発達に貢献するためには、学校教育において教えられる知識は(歴史でさえも)真実とは限らないこと、答えは一人ひとりが自分で見つければよく、必ずしも一つに決める必要はないことを、学校教育の中において理解させることが重要である。学校教育において、その正しさに疑問を持たせるのは、矛盾しているといえば確かにそうである。しかし人間同士が同質化せず、前述の多様性が担保されるためにも、学校教育自身が、自らを懐疑することを求めるという大きな決断が必要であると思う。それくらい大胆で刺激的なことをしないと、考え方に影響を与えるということは難しいはずだ。


自分は学校教育を余計なものだと言っている訳ではない。人々が社会を営むためには、各構成員がある程度の共通知識、共通認識を有していることが条件となる。そのため、それらを覚えさせるための学校教育は、社会の土台を支えるもっとも重要なインフラだといっても過言ではなく、絶対的に必要なものである。自分が言いたいことは、要するに、生きていくためには能動的姿勢が何より大切であり、学校教育においては結果的な知識を覚えさせることよりも、知識を得るまでのプロセスを考えさせ、知識の使い方を練習させることが重要視されるべきであるということだ。例えて言えば、作られた料理を与えるのではなく、レシピを渡して完成後の姿を想像させたり、包丁の使い方を指導した上で実際に作らせたみせたりすることが大切だというである。包丁の使い方が分かっていれば、何を作るにも応用が利く。能動的な姿勢を持っていれば、あとは自分の力でやり方を調べて色んな料理を作ることができる。料理をきっかけに、日本の文化や、農業に興味を持つことがあるかもしれない。そうすると、その個人にとっての世界はどんどん広がっていく。自分が日本社会を変えていくために、学校教育に期待することは、そうした「きっかけ」としての機能なのである。

(145分)


<反省>
太字の部分を言いたかっただけなのに、文章化しようとしたらこんなに長ったらしくて回りくどくなってしまった。なんというか、残念。究極的には、2行くらいでズバッと本質的な部分だけ書いて、詳細は想像力による補完に任せるという形にしたいものだ。でないと、自分が持たない。