平成とネット

4月1日に新元号が発表されてからというもの、「平成最後の~」とか、「祝令和~」みたいなフレーズを新聞やテレビ、広告の類いでやたらと目にするが、それとは対照的に、自分の周りでは改元にまつわる話をしている人は全くといっていいほど見かけない。たぶん、みんな毎日の仕事や生活のことでいっぱいいっぱいで、書類の年号表記くらいでしか直接関係なさそうな改元という出来事にしみじみと思いを至すような余裕がないのだろうと思う。自分はというと、余裕がないのはいつものことながら、かといって改元に無関心な訳でもないのだが、育児をしていると毎日が非日常であり、家庭は戦場なので、昨日おとといのことさえ記憶がない。したがって「1日1日が新世紀」みたいな感覚で生きているので、数十年スパンという長すぎる区切りに頭がついていかないという、ただそれだけのことである。改元という画期自体にはあまり実感や意味を感じないが、それでも天皇の代替わりという面においては、大いに関心を抱いてきたし、日本と日本国民統合の象徴という役割を模索しながら体現してきた現在の天皇陛下には、深い尊敬と親しみの念を感じて止まない。

 

 

さて、今夜は、昨日放送された「NHKスペシャル 平成史(8)情報革命 ふたりの軌跡~ネットは何を変えたか」という番組を見た。この中でスポットを当てられた人物は、ヤフーを日本一のインターネットサービスに押し上げた井上雅博氏と、画期的なファイル共有ソフトウィニーを開発した金子勇氏の二人。井上氏のことは名前を聞いたことがあるくらいだったが、金子氏は開発したソフトが著作権法違反幇助の疑いで逮捕されたことなどをある程度知っていたので、すでに両氏とも死去していたと知ってショックを受けた。しかも金子氏の死去は、最高裁で無罪判決が確定してまもなくのことだったと知り、二重に衝撃的だった。番組を見ていて、またネットの発展とともに歩んできた自分の人生と重ね合わせて、平成という時代はネット抜きには語れないと強く実感した。社会や産業の構造や、人々の生活スタイル、ものの考え方・・・ありとあらゆるものが、ネットが当たり前に存在し、いつでも誰でもアクセスできるという前提で動いている。こんな世界を、30年前に具体的に想定していたのは、攻殻機動隊を描いた士郎正宗くらいなものだろう。しかも、攻殻ではSFとして描かれていたネット社会は、今や日常となって久しい。ネットという「概念」を、正しいか誤解しているかはさておき、誰もが認知しているということ自体が、驚くべきことだとつくづく思う。誰もが世界中のあらゆる情報にアクセスでき、個人個人が世界に向けて情報の発信者になれるというのは、従来の仕組みや考え方を根底からひっくり返す革命的な出来事だった。この変化は不可逆的だし、この便利さは決して手放せるものではない。だからこそ、ネットという技術を本当に人類の進歩のために活かせるかどうか、より高度な文明を築くために使いこなせるかどうかということが、これからより一層試されることになるのだと思う。人々がネットを、単なる即物的な娯楽や、暇つぶしや、虚偽の情報の流布のための道具として使うに過ぎないのか、それとも、知の結集や、SOSの素早く正確な伝達や、社会問題の克服のために活かすのか。ネットがこれだけ巨大な存在となり、社会にも個人にも不可欠な存在となった中で、「何のためにネットを使うのか」という個人の意思と知恵と良識こそが、ネットリテラシーの核心として本質的な意味を持ち、これからの社会の行く末を決めるカギとなるのではないかと自分は思っている。ネット社会が、令和時代に光をもたらすものであって欲しいと願って止まない。

 

 

そんな自分が明日~明後日の改元のタイミングにどこで何をしているかというと、おそらく妻の実家で寝ていることだろう。時代はどうあれ、自分はただ、家庭の平和を最優先に奮闘するのみだ。

 

(90分)