ネットリテラシー

日本でインターネットが普及し始めたのは、ウインドウズ95が発売された1995年ごろからだと言われている。自分の家にネット回線が開通したのは、確か99年の12月ごろ。そして中学に進学した2000年以降からそれを頻繁に使うようになる。当時は、音声電話回線を利用したダイヤルアップ接続で、ネット接続中は家の電話が使えなかったほか、従量課金だったので、接続している時間の長さに応じて料金が高くなる仕組みだった。回線速度は最高でも56kbpsだったので、画像の表示には非常に時間がかかったし、動画なんてものはほとんど存在しなかった。そんな重たいコンテンツはとても存在できなかったのだが、それゆえに容量が小さくて済むFLASH動画という文化がその後花開いた。当時のコンテンツの主役はあくまでもテキストで、そのほかには小さなイラストや写真、MIDIが少し添えられているという程度のものだった。自分のネットの主な使い方は、ゲームの攻略サイトやゲームメーカーのHPを見て最新情報を収集するのことがだったが、00年からすでにネット通販も利用していた。またネットの利用は、常に時間との戦いであったと同時に、家族に隠れてこっそりやるものだった。なぜなら、ネットをするためのPCは親の所有だったし、電話が使えなくなるため家族のいるときに大っぴらにやることはできなかったからだ。平日の夕方、親が不在なのを見計らってPCを持ち出して電話線を繋ぎ、気になる検索ワードをささっと調べて、目当てのホームページが見つかったらすぐに閲覧するか印刷し、用が済んだら急いで片付ける。そんなふうに、こそこそと、時間を気にしながらやるのが、当時のネットサーフィンの姿だった。当時はインターネットというものがどういう仕組みで動いているのかなんて全く考えもしなかったし、ネットで調べれば何でも出てくるし、どんなものでも買え、あらゆるコンテンツは無料で利用できる・・・ネットは万能なのだと思い込んでいた。中学生だった当時からすでに、ネットは「巨大な娯楽」として認識されていたし、時間を気にせず利用出来たらどんなにいいだろうと思っていた。その後、自室にPCが置かれ、CATVのブロードバンド回線が開通し、携帯電話の入手でiモードが利用できるようになるなど、自分を取り巻く状況は大きく変化した。自分自身も、高校大学時代にはネット依存になり、常にネットの情報を気にし、少しでもネットが使えないとイライラするようになったほか、膨大な時間をネットの底なし沼の中に捨てることになってしまった。画面を長時間見過ぎたことで視力も大きく低下した。でも、そうして多大な犠牲を払ったのと引き換えに、「ネットは深い闇であり、誤った情報と悪意とに満ちている」「ネットは便利ではあるが、万能などでは決してない」「ネットに個人情報を晒すのがいかに危険なことであるか」「目的なきネットサーフィンに多くの時間を割くことがいかにバカバカしく不毛か」「オンラインゲームの中毒性は麻薬以上に強い」といったことを、身をもって、痛いほどに理解した。パソコンの使い方、ネットの仕組みといったことも、少しずつ、少しずつ習得していった。自分はそうして長い時間をかけ、誰に教わるでもなく、あくまで自分自身の無数の実践と失敗の中で「ネットリテラシー」らしきものをある程度身に付けるに至ったのである。それは本当に長く愚かな道のりであり、自分があと10年早く生まれていたら決して経験することのなかったであろうものだった。


自分はそういう経験をしてきたので、ネットリテラシーというのは一朝一夕で身につくものではないというふうに考えている。それは決して、学校教育の中で「正しく」身につけられるものではない。自分が学校教育の中で受けたパソコン授業等でその後役立ったと感じたものはほとんどなかったし、教える教員の側がネットの本質を理解していない世代である以上、一定の共通認識というものを正確かつ画一的に浸透させることは非常に難しいのではないかと思う。その一方で、今の子どもたちにとってのネットの敷居の低さというものを考えると、自分の当時とは比べ物にならないほど劇的な変化が起こったことに気付く。パソコンやゲーム機が光ファイバーの高速回線でネットにつながるのは当たり前、スマホは高校生どころか中学生でさえも持っていて、いつでもどこでも、ベッドに寝転がろうが、車で移動中だろうがお構いなしにYouTubeの大容量動画がスムーズに再生出来てしまう。富士山の山頂でもLTEが使えるというのだから、自分からしてみればまさに隔世の感だ。ダイヤルアップ接続が繋がるまで「ピーヒョロロロ・・・」なんて音を数十秒間聴く「儀式」があった時代のことなど、彼らにとっては石器時代の話に思えるだろう。だが、ネットの存在があまりにも当たり前すぎるゆえに、ネットの功罪、光と影を、実害を被らないよう少しずつ学習していく過程が損なわれているのではないか、「無防備な身でいきなり飛び込んできて大丈夫なのか?」と、自分はついつい心配になってしまう。彼らはデジタルネイティブ世代、いわば「ニュータイプ」であって、中高生のうちからすでにネットの酸いも甘いも十分に知り尽くしている、という可能性もあるにはある。確かに、子どもはいつの時代も新しい技術や道具を柔軟に自分たちの遊び文化の中に取り込み適応してしまうものである。それでも、ネットは子どもの遊び道具にするには、あまりに危険な部分を有している。SNSに個人情報を晒して犯罪に巻き込まれたり、スマホのアプリにアドレス帳の中身を抜き取られネットに流されて悪用されたり、オンラインゲーム等の課金制度への理解不足から高額な利用料を請求されたりといった事例は後を絶たない。ネット環境が急速に変化し、低年齢化が進んでいる時代に対応した、ネットリテラシーの教育方法なるものが確立されてはいない以上、誰かがネットにはびこる悪意の餌食となる危険は拭い去れない。老婆心かもしれないが、自分はそれがただただ心配でならない。もし、自分に子どもがいたとしたら、最初に買い与えるゲーム機はゲームボーイファミコンで、ケータイ(スマホではない)は高校生になるまで与えず、家のテレビはNHKしか映らないようにチャンネルを設定するかもしれない。感受性豊かで無邪気な子ども時代は、一生で一度しかない。その時期を、本を読んだり、公園や野山で友達と遊んだり、スポーツをしたり、楽器を弾いたり、勉強をしたり、自然の厳しさや歴史・文化の素晴らしさに触れたりといった経験を積むことに使わないのは、後々大きな損失となってしまうのではないかと思うのだ。人間らしい人間としての土台を固めるために経験すべきことというのは、どんなに科学が進歩し時代が変わっても、そう大きくは変わらないはずだ。それゆえに、便利な道具に振り回されて、一人ひとりの人間の土台が薄っぺらくなることは、結果的に文明の退化に繋がりかねないという懸念が自分の中にはある。道具は人間が「使う」ものであって、人間がそれに「使われる」存在であってはならないのだ。


20年前、全く新しい未知なる領域として社会の表舞台に登場したインターネットは、瞬く間に全世界を繋ぎ、もはや社会になくてはならないものになった。だが、社会はそれとの正しい距離感、適切な付き合い方を未だ確立できずにいる。ネットが真の社会インフラとなるためには、この壁を必ず越えなければならない。その難しい課題に挑むのは、ネットの発展過程と半生を共にしてきた、自分の世代の役割なのかもしれない。

(90分+30分)