被忘却権

近年、「忘れ去られる権利」なるものが、主に欧州で主張されているらしい。ネット上に公開された自分の情報を削除あるいは検索不能にするよう、検索エンジン運営会社等に求める「新しい権利」のことだそうだ。最初にこの話を聞いた時、直感的に思った。「無理だろ」と。一旦ネット上に拡散した情報は、決して完全な削除や回収は出来ない。オリジナルの情報を消しても、消去前にコピーされた(あるいはWEB魚拓を取られた)情報が、別のサイトに転載される連鎖を止めることは出来ない。例え検索を出来なくしても、P2Pやメール等を介していとも簡単に情報は流通してしまうし、誰かがコピーした情報が、見知らぬ個人のPCやサーバーの中に残り続け、自分の意図せぬ形で誰かの目にさらされるリスクは永遠に消滅しない。そもそも、特定個人の情報を「検索不能」にすること自体が無茶な話だ。例えば、「山田太郎」さんが自分の情報をネット検索されないようにするためには、全国に千人以上いるかもしれない同姓同名の山田太郎さんの中から、その中のたった一人の「山田太郎」さんにまつわる情報だけを特定して、個別に検索不能にしなければならない。そのためには、無数の山田太郎さん情報の中から「山田太郎」さんを区別するための、彼個人に関するありとあらゆる情報が必要となるという逆説的現象が発生する。現実問題として、特定の個人の情報を検索不能するということは、ほかに同姓同名が存在しえない極めて珍しい名前であるというレアケースでもない限り、ほとんど不可能なのである。


ネットに一度上がってしまった情報は、もはや個人がどうこうしたところで、完全に消し去ることは技術的に不可能である。それがネットにおける常識であり、大前提だ。であれば、ネットに公開する情報は、極めて慎重に選別しなければならないことになる。とりわけ、情報の「組み合わせ」には細心の注意が必要だ。誕生日、氏名、住所、勤務先といった情報は、それ単体では個人を特定することは出来ないが、2つ以上を組み合わせることによって、個人の特定可能性が飛躍的に高まる(個人情報保護はこうして「組み合わされた情報」の悪用を防ぐための概念であり、単なる氏名だけでは個人情報にはならないので、そこを勘違いしている人は要注意)。だから、自分もブログにべらぼうなことを好き放題書いているようで、実はこうした個人情報は記載しないよう、自分の中のプライバシーポリシーに則って厳しく注意している。開設以来の膨大な記事の中には、自分の学歴、好きなものや苦手なもの、主義主張に関する情報がちりばめられて存在しており、これを熟読すれば、自分個人を特定することはおそらく可能だ。ただし、リアルの自分を知る人が「これを書いたのはあいつだな」と分かるという意味での特定であって、全く知らない人が「特定しますた」なんて情報を晒すことが出来るほどの精度の高い情報ではない。その上、膨大な情報が全く整理されていない状態で存在しているので、やみくもにブログ内を検索してみたところで、自分の個人情報や人となりは分からない。木を隠すなら森の中、情報を隠すなら辞書の中、というわけだ。自分の文章がやたら長ったらしいのは、情報の海の中で自分の身を隠すための術の一つでもある。本当に自分を知りたければ、最初の記事から順番に読んでいけばいい。ただし、自分自身そんなことはしたことがないし、現在まで追いつくのに何十時間、あるいは何日かかるか分からないが。また、それとは別に、職務上知り得た未公開の情報を書くとか、誤解を招きかねない言い回しや、データや事実に基づかない一方的で論理的でないない決め付けをするとかいったことがないよう、自分なりに考えて物を書いているつもりだ。自分個人の情報が、ブログ単体の記載からは特定されないように、そして公開する情報が所属する組織の不利益にならないように最大限配慮しているからこそ、自分は読み手に気兼ねすることなくでたらめなことを書き連ねて日ごろのうっぷんを晴らすことが出来る。これがもし「○○さんにこれを読まれると機嫌を悪くするかも」なんて考えるようになったら、自分にとってこのブログの価値はほとんど消滅する。主義主張のない、ただの日記になってしまう。それでは困るのだ。ネットの自由を守るためにも、ネットに不用意に情報を載せない、特に「組み合わせ」を行わないということは、非常に重要なのである。


そうした考えを持っている自分にとって、フェイスブックをはじめとするSNSは最悪の代物である。ネット上に個人情報を「整理整頓」された形で載せるという行為がどれほど無防備で危険であるかを考えれば、学歴・氏名・年齢・趣味嗜好を迷いもなくいともたやすく書くなんてマネは到底できない。毎日のように情報流出のニュースが流れているのから分かるように、ネット上のセキュリティなんてあってないようなものだ(報道されているのは氷山の一角に過ぎない。流出したことすら気付いていない事例が多いはずだ)。ましてや、招待なしに誰でも登録可能なフェイスブックなら尚更である。確かに便利かもしれないし、ビジネスに役立つかもしれないが、過去のネット上での幾多の炎上事件を目にしてきた自分にとって、情報が悪意を持ってどこかに晒された場合の「万が一」のリスクは、便益を上回って余りあるほどである。例え自分が法や良心に反する行いを決してしないと信じていても、世の中には「冤罪」というものが存在するので、ある日突然言われもなきことで貶められる可能性はゼロではない。そもそも、フェイスブックに記載した情報がどこに流れて利用されるかなど、利用者個人には全く分からないのだ。裏で公然と売買されているのかもしれない。アメリカの新興IT企業に、しかも無料のサービスに対して、良心や誠意を無意識下に期待するのは、あまりに日本人的な思考であり、恐ろしく楽観的に過ぎる。ネット利用の大原則は、「誰も何も信用しないこと」だ。自分が好きなTVドラマ「Xファイル」でも散々「Trust no one.」と言っていた。だからこのブログで自分が書いている「戯言」も決して信じてはいけないし、戯言を真に受けてどんな損害や精神的衝撃を受けたとしても、自分は一切責任を負わない。ネット上にある情報は嘘や偏見ばかりだし、「無料動画」なんてバナーをうっかりクリックする人はウイルス感染や架空請求の被害に遭う。小学生以下の子どもや、人を疑うことを知らない無垢な心の持ち主には、あまりに危険で刺激が強すぎるから、ネットは使わせないほうがいい。自分はそう考えている。だから例え自分が何らかの事情でやむを得ずフェイスブックを使うことになったとしても、必要最低限の情報しか記載しないし、検索にひっかからないよう、場合によっては、「尊敬する人=稗田 阿礼」とか「好きなスポーツ=靴飛ばし」などと心にもないことを書いて、情報に「ダミー」や「ゆらぎ」を含ませることがあるかもしれない。まああくまで仮定の話でしかないが。


そしてもう一つ。個人情報の暴露(流出)と、ネットへの依存・・・この2つの大きな問題への懸念が解消されるまで、自分がスマホを持つこともまた、決してないのである。

(45分+55分)