映画「鈴木先生」

今朝、ツタヤの動画配信サービス、「TSUTAYA TV」の月額プランを解約する前の、最後のポイントの使い切りで、2013年公開の映画「鈴木先生」を視聴した。2011年に放送され、自分も当時ハマって全話視聴した同名ドラマの映画版である。このドラマをきっかけに、ロッカトレンチの楽曲を聴くようになったし、主演していた俳優の長谷川博己のことも好きになったので、自分に結構大きな影響を与えた作品だったと言える。TSUTAYA TVでたまたま映画を見かけて、懐かしさと興味から、土曜の朝6時からの起きがけの2時間を充てて見ることにした。


映画のあらすじ等の紹介は省略し、自分が感じたことだけを以下に少し書いておく。


中学校の卒業生が当時お世話になった先生を訪ねてきて、目当ての先生と話をした後、去り際にその卒業生が鈴木先生に「あんたの教え子で卒業してから訪ねてくる人いるの?いないでしょ。生徒に慕われてる、いい先生だと自分では思ってるかも知れないけど、実際はそんなもんだよ」といった趣旨のことを言われる場面。映画の序盤のシーンで、鈴木先生の心にちょっと引っかかって、終盤に生徒がそれをフォローするシーンがあるのだが、これを見て、「自分も今まで一度も、担任を含めて自分が教わった教員のことを訪ねたことがない」と気がついた。成人式のときに来ていた中学のときの教員とも全く会話しなかったし、中学当時の部活の顧問だった教員が自分の勤め先の大学の付属学校に転勤してきたときも、会おうとしたことはなかった。自分は自分が教わった教員のことを尊敬しているし感謝しているが、それ以上の思い入れは、良くも悪くも特に抱いていない。薄情者だと思われるかも知れないが、新聞の記事でよく有名人が語っている「恩師に言われた言葉を今でも胸に刻んでいる」的なものもないし、あの先生にもう一度会いたいという感情もないのだ。小中高と通して見ても、当時何を言われたか、教員とどのように付き合っていたか、ほとんど思い出せない。すでに高校卒業から11年も経っているから、記憶の風化という面もあるだろうが、自分はこの状態を少し別の意味に捉えている。たぶん、教わったことがすっかり自分の体に染みこんで、血肉になっているから、思い出せないのだと思うのである。それは食事と同じようなものだ。毎日必ず食事を摂るのと同じように、学生時代には毎日様々な学びがあった。それは自分の中で消化され、自分の一部となり、また外からの新たな刺激を受けるたびに形を変えていった。もはや原形をとどめないほどに変遷を重ね、それぞれが繰り返し影響し合ったから、一つ一つを区別できないのだ。それが、自分が当時の学び、教員との関わりを思い出せない理由だと思うし、当時の教員がきちんと教育してくれたことの成果であり証明だと思っている。あとは、自分が問題が起きても人に頼ろうとしない、自力で何とかしようとするタイプなのも、卒業後に昔の担任などに会おうと考えない理由だと言える。自力でどうにかすると言えば聞こえはいいが、人に甘えたり、頼ったりして弱みを見せないのは、人間関係を狭める行為なので、人生にとってプラスなこととも言えない。ただ、卒業後に教員とどう関わるか、関わろうとするかというのは、個人の選択の問題だ。どれが正しいということではない。鈴木先生の教え子もきっと、鈴木メソッドと、自分の元々の考えとの区別がつかないほど、学びを吸収したくましく成長したから、卒業後に頼ってくることがないのだと思う。「便りがないのは元気な証拠」だと思って、胸を張っていいんじゃないかなと、個人的に先生にエールを送ったのだった。


ほかには、学校は社会の縮図ではなく、社会から隔離された閉鎖空間だと感じて、未だに教育機関の内側に留まっている自分に、早く社会に出た方がいいんじゃないかと危機感を募らせたこと、グレーゾーンをある程度残すことは大事かもしれないと思ったこと、妻が妊娠しても煩悩まみれの鈴木先生にやれやれと思ったこと等をメモしておく。総じて、考えさせられることの多い作品で、個人的にはとても楽しめた。


マンガ原作はすでに完結しているが、まだ読んだことがない。いずれ気が向いたときに読んでみるとしよう。

(60分)