20代最期の言葉

明日、自分は30才の誕生日を迎える。論語では、「三十にして立つ」という。自分を若者だと思うことによる心の甘えや、自己の存在に対する迷いから卒業して、本当の意味で自立し、独立した人間として歩み出す年齢。それが30才ということなのだろう。その大きな一歩を目前に控え、20代の締めくくりとして、自分のことを振り返りつつ、心の整理をしてみたい。


20代は、とことん自分のために使った10年間だった。他の人と比べたら、地味で小規模なものであったに違いないが、大学生として学んで、社会人になって仕事をして、時には友人と遊んで、北海道から沖縄まで全国各地に旅行して、ドイツへの2週間の研修を皮切りに海外にも初めて行って、自分には縁がないと思っていた結婚をして、自分の子供が生まれるという奇跡までも経験した。自分にできることが拡がっていく楽しさや自信と、反対に自分の能力不足、あまりのちっぽけさに直面しての落胆や失望、それらを繰り返しながら、迷いや悩みの中で、少しずつ、一歩ずつ前に進んできた。だから、最終的に、20才のときの自分が全く想像もつかなかったところまで、こうしてたどり着くことができたのだと思う。自分は何者なのか、何になれるのか、何ができるのかという不安との戦いの中で、現状を変えられないまま年齢だけを重ねていくことに対しての焦りに苛まれた時期もあった。だが、今、30才を迎えるに際して、そうした感情はすっかり鳴りを潜め、心の中は静けさで満たされている。それらは消えたわけではないのだが、心の中で波風を立てる存在ではなくなって、「まあ、生きていればそういう悩みもあるさ」という位に、平常心で向き合うことができるようになった。不安や悩みと同居しつつ、それに支配されずに心の独立と平静を保ちながら、生きていく覚悟ができた、と言うことができるかもしれない。少なくとも自分自身に関する問題については、若かりし頃の人生最大の関心事だったものが、今や遙か後ろに小さく見える程度の存在でしかなくなってしまった。ただ、これからの人生は、家族、社会、地域など、自分と自分周りの人達との関係性において、これまでより遙かに多くの困難だったり、新たな問題だったりに日々向き合わなければいけない時代に突入する。例え自分が出来損ないでも、それに対する不満があっても、今の自分を最大限活用して勝負していくしかないのだ。自分は何者か、などということは、年に一回考えれば十分だろう。


20代でやり残したことは、と問われたら、自分は「一切ない」と断言することができる。上述したように、様々な経験をして、変化に富んでいて、自分の成長の実感があったからだ。子供だった10代より、大人になった20代のほうが充実していた。そう考えれば、20代より30代のほうが、また違った意味で充実感を得られるかもしれないし、これからも変化に挑戦しながら、成長できるかもしれないと思える。20代は本当に長くて、今の自分にとっては、一生分に相当するくらいの濃さがあった。忘れん坊の自分には、10代以前のことを思い出すことはもはやできない。だから、当時詳細な日記を残していたことは、自分が生きた証を辿る上でとても重要な財産となっている。記録するという営みは、その方法や形態を変えつつも、自分の生涯を通じて途絶えることのないライフワークであり続けるのは間違いない。


自分の自由を存分味わったから、孤独と向き合って、自分一人の時間を十分すぎるほど作ったから、これからは自分のやりたいことより、人のために自分が何をできるかということを最優先にしていく。そこに何ら迷いはない。身近な誰かの幸せのために生きることが、自分の幸せにつながる、そう信じてみたい。その姿勢を貫いている限り、自分の生涯がある日突然終わりを迎えたとしても、自分には一切悔いはない。それが自分にとっての「三十にして立つ」ことへの覚悟である。


自分を主人公にした長い長い物語に、今ようやく、一つの幕が下りる。明日からの新たな物語の幕開けに思いを巡らせつつ、今夜は一人静かに目を閉じよう。

(60分)