取捨選択(情報編) その1

いつ年が明けたの?って訊きたくなるくらいに実感がないのだが、2016年に入ってすでに一週間が経った。日々のことに追われるあまり、時間の流れ、季節の移ろい、年中行事に鈍感になるのは自分の望む姿ではないが、今は公私ともに色んなことが重なりに重なっている、大変かつ重要な時期なので、危機意識は持ちつつもそれを黙認せざるを得ないのが現実だ。喜びと悲しみ、楽しいことと辛いことが同時に訪れるので、気持ちの波は冬の日本海のごとく激しいが、それに身をゆだねて感傷に浸っている余裕はあまりない。


自分はこれまでの28年間の人生で、見聞きし出合った色んなものを自分の手元に集め、趣味にしたり、習慣としたりして、程度の差はあれ、それらを自分のアイデンティティを形作るファクターとして大事にしてきた。この世のすべてを知りたいという「ファウスト的衝動」の下に、いわば目に見える形での「拡大政策」によって自分の世界を広げてきた。ただ、社会人になって数年経ち、次第に物理的、時間的、金銭的制約が露見してくるとともに、この政策の標榜を見直さざるを得ないという認識が強くなっていった。それは、2013年初頭からすでに問題意識となっていたことだった。これが、仕事の多忙化と自分の結婚という変化に直面して、いよいよ避けて通れない問題として立ちはだかることになった。そのため、「何でもかんでも」を止め、本当に大切なものは何かを熟考して「取捨選択」することが、今非常に重要かつ喫緊の課題となっている。この「取捨選択」を、これから大きなテーマとして、計画的かつ戦略的に進めて行きたいと思っている。


第1弾として、今月1日からある「情報源」にメスを入れた。それは「日本経済新聞の購読停止」である。自分は学生時代の2008年冬から日経新聞の購読を始め、就職して実家に帰ってからもほぼずっと購読を続けてきた。経済学部卒としての矜持の一つだったし、新聞は日経じゃないと物足りない気持ちが強かった。しかし、毎日20〜30分かけて新聞を読むことが去年以降難しくなり、昨年の大みそかには溜まった新聞19日分を一気に読むということをしなくてはならないほどの状況になっていた。これでは新聞の意味がないし、自分にとって費用対効果が低いと言わざるを得ない。新聞は大事だが、世の中のニュースを追いかけるだけなら、テレビや週刊ダイヤモンドなどほかの媒体でも事足りる。そうしたことから、日経の自宅での購読を一旦停止することにした。自分が取るようになってから同じように日経を読み続けてきた家族も、この理由に納得してくれた。そもそも、我が家は日経を含めて日刊の新聞を3誌も購読していた。それは多すぎだとは前から思っていた。ただ、金輪際日経を読まないという訳ではない。やはり、新聞と言えば日経だと自分は信じているし、状況に余裕が出てきたら再会することも選択肢の一つではある。ただ、現状として、停止という選択が最適であると判断したということである。


次は、趣味にも取捨選択を講じていく。

(30分:1/8)