FB2007/06:変わることの価値

2007/6/2(土)


昨日amazonWii版バイオ4のページを見ていたら、あるレビューに目がとまった。バイオ4はシステムが以前とは変わりすぎて、もはやバイオじゃない・・・そんな意見だった。確かにその気持ちはよくわかる。自分も最初にドラクエ8の画面写真を見たときはそんなことを思ったものだった。ドラクエのキャラは二頭身で、フィールドは記号でなくちゃならないんだ!ドラクエはグラフィックにこだわらないんだ!こんなのはドラクエじゃない!!…ってね。


だけど、時間がたち、詳しい情報を得るにつれて、考えは徐々に変わっていった。そして、発売を間近に控えたころには、ある結論に至った。


殻にこもって伝統にこだわることも大事
しかしその外に新たな面白さが広がっているなら、
時にはそれを打ち破ることも大事


そのように、ドラクエ8を肯定できるようになっていた。


そうして素直なまなざしを持って、実際プレイしてみると、美しく鮮やかで生き生きとしたどこまでも広がっているフィールド、駆けるだけで楽しく、見渡すだけで気持ちいい世界に、自分はすぐに惹き込まれた。手触り感と臨場感のある冒険に夢中になった。そして、この素晴らしい世界を作るために、ドラクエが変わることは必須だったし、それは正しいことだったと強く実感した。それは今でもはっきり覚えている。バイオ4にも同じことが言えると思う。バイオ4は素晴らしい面白さ、魅力を有している。そしてそれを得るためには、フルモデルチェンジが必要だったのだ。


自分はゲームの本質とは、「面白さ」だと考えている。グラフィックだけがいくら精細で美麗でも、音楽がいくら壮大でも、それらが面白さ、快感に結びついていなければ、価値は無きに等しくなる。逆に言えば、面白いと感じられるなら、グラフィックや音源はシンプルでも自分にとっては全く構わない。PS3が登場した現在でも、ファミコンのソフトに名作と呼ばれ親しまれているものがあるのは、それらが本質的な面白さを有しているからに他ならない。だから、続編であろうと、本質的な面白さが向上するなら、あるいは新たな面白さを開拓できるなら、大きく変わっても別にいいではないか、と自分は言いたい。


かつての自分のように、同じ一つのシリーズとして大きく変わらないことを望む人もいるだろう。だが、それならば、変わることが認められないのならば、続編をプレイせずに過去の作品をプレイし続ければいいだけの事だ。きちんとプレイしてみて面白くなかったというなら当然話は別だが、ただ変わってしまったというだけで非難するのは如何なものか。


伝統はただ守っていくだけでは後世に伝えていくことは出来ない。取り入れるべきものは取り入れて、よりよくしていってこそ、いつまでも人々に愛され続けることが出来るのだ。


シリーズ作品の続編だから、と色眼鏡をかけて判断してはならない。能動的に情報を集めて、「面白そう」と思えるかどうか。実際にプレイしてみて、素直に「面白さ」を感じるかどうか。それぞれのゲーム作品の価値は、そこで決められるべきだと思う。


(原典:初代ブログ)


*フラッシュバック 第9回*

熱いな。実に熱い。ゲーム文化に対する愛情と情熱、真剣な眼差しを強く感じる。中学〜高校時代には、「ゲーマー」としての自分こそ、自分のあるべき姿であり、ゲームは「卒業」することなど決してない一生ものの趣味だと固く信じて疑わなかったし、周囲の友人からもゲームに対する時に極端なまでの熱意を自分の個性として認識されていた。どれくらい極端だったかというと、周囲の友人を巻き込んで高校に液晶テレビ(13インチ)とゲームキューブを持ち込ませ、全校の球技大会で授業が休みになったときに、日中に教室でスマブラをやるということをやってのけたほどだった。どうしてもみんなでゲームがしたい、ゲームを楽しんで一緒に盛り上がりたいという思いから、そうした今考えてみてもとんでもないことをやったし、同じ思いを持つ自分よりレベルの高いゲーマーの友人が周りにいたことで、そんなことが実現したのだった。大人たちのゲーム批判に対して反感を覚え、理論武装して反論するなど、ゲームに関しては一家言持っていたし、殊にゲームのこととなると熱い一面が現れる、根っからのゲーム好きだったといえる。当時の日記等を見ても、ゲームに関する記述が多く、ゲームがいかに自分にとって欠かせない存在だったかを感じることができる。ただそうしたエネルギッシュさは、理解ある友人に恵まれていたことによって支えられていた部分が非常に大きかったことを、大学に入ってから知ることになった。「ゲームはコミュニケーションなしでは本来の楽しさを引き出すことが出来ない(07年5月08日の日記)」ということに気付いたのである。親の干渉から解放され好きなだけゲームが出来ると思っていた大学生活は、現実には孤独の中で徐々にゲーム熱が冷めていくという展開を迎えることになる。それは「ゲーマー」という自分のアイデンティティを喪失していく過程でもあった。自分を見失い、心から打ちこめるものや、それを共有出来る仲間のいない暗闇の中で、前向きになることすら難しい不安定な心理状態から逃れられないまま、学生時代の大半を過ごすことになった。最初での躓きが結果的に最後まで残ることになったのは、能動的に人間関係を作っていけない自分の弱さに原因があったのだと思う。その後、就職して自分でお金を稼げる身になったことで、自分は自分に自信を持てるようになり、ほんの些細なことで揺らいでいた弱い心はすっかり鳴りを潜めた。学生時代に比べればずっと前向きだし、言動も落ち着いていて地に足がついている。だが、ゲームへの情熱はどうだろう。今の自分には、かつての極端なほどのゲームへの熱意が見られない。ゲームは続けているが、その姿勢にはかつてほどの真摯さがない。「人間はいかに円(まる)くとも、どこかに角がなければならぬ(渋沢栄一)」という。なるほど、温厚で落ち着いているだけで、どこにも尖がった部分がないのは、どうにもつまらない人間だといえよう。


上に掲載した文章が書かれた時点でも、ゲームに対する情熱は、すでに高校時代以前のような熱と光を保ってはいなかった。だが、そのことに対する危機感はあったし、自分が真に打ち込める趣味はゲームだと信じていた。今当時を振り返ってみて感じるのは、自分の本質がなおゲームの中にあることを、今一度強く認識する必要があるということだ。仲間はいるのかとか、時間はあるのかとか、課題も多いのは事実である。だが、「ゲーマーへの回帰」というのを一つの旗として掲げて、そこに向けて自分をもっと尖がらせていくというのは、少なくとも日々の生活に刺激をもたらしてくれるはずである。


「ゲーマーの資格とは」と題した06年1月28日に書かれたメモには、以下の3つの条件が挙げられている。


・ゲームのことを考えたり、ゲームをプレイしたり、ゲームについて語ったりすることに情熱を燃やせること
・ゲームをすることと、社会生活とを両立できること
・ゲームの素晴らしさをより多くの人に理解してほしいと思えること


うっとおしいくらいの熱さを持ったこんな「ゲーマー」の自分を想像してみたら、何だか希望が沸いてきたのだった。

(120分)