病院

今夜の仕事帰りに、ふとした用事で市内の県立病院に立ち寄った。夜間の入り口が分からず10分ほど建物の周りをうろうろしてからようやく中に入ることが出来たが、そこにいることが嫌だったので、用だけ済ますとそそくさと立ち去った。自分は病院が苦手なのである。幼いころ注射やけがの手術を受けたときの「おっかない」イメージをずっと引きずっていて、出来るだけお近づきになりたくない思っている。実際、1997年4月におたふくかぜにかかった時を最後に、これまで15年間病院で診療を受けたことがない。歯科、眼科、整形外科、内科の「医院」の医者には時折かかってきたが、こと「病院」からは長いこと遠ざかっている。病院への苦手意識が、自分の健康を守る上である種のモチベーションとして機能していると言ってもいいだろう。現代人は、病院で生まれて、病院で死ぬと言われる。ゆりかごであり、墓場でもあるということだ。もちろん、病気やけがの治療という役割が最も大きいが、その役割が活躍する場面は少ないに越したことはない。医療という仕事はとても尊いものではあるが、極論をいえば、誰もけがや病気で病院に行く必要がなく、医者が失業するような健康社会が最も理想的である。健康にちょっとでも不安を感じたら医者にかかる、というのも一つの考え方として否定はしないし、医療で飯を食っている人たちにとってはあまり万人が健康になっては困るというのも皮肉な事実であろう。だが、少なくとも自分は、難病や、不慮の事故、生まれつきの障害、後遺症等によって、やむを得ず、どうしても医療を必要とする人たちのために席を空け、「自助・自己防衛」の精神で、自分の体は自分で面倒を見て、事故や病気のない生活を送りたいと思っている。自分の健康や安全を人任せにしたくはないのである。健康保険料の個人収支が永遠に赤字であれば、これほど素晴らしいことはない。逆に、保険料の元を取ろうなどと愚かなことを考える人が増えると、健康保険制度は早晩に破綻を来すことになる。医療は現物給付であるため年金と違って若年世代への資産移転効果等もないため、無節操な利用の拡大は社会に大きな負担を強いることになる。すでに体を壊している高齢者に保険を使うなというのは出来ない話だ。従って、対策としては現役世代が今のうちに健康な体を保つ努力をして、年を取っても出来るだけ医療を受けなくて済むように準備を整えておくことが何より重要となる。今後は、自分も加齢とともに人間ドック等で病院の検査を受けざるをえなくなると思う。それはそれでやむを得ないが、人生の目標として「健康で元気なうちにぽっくり死ぬ」こと(いわゆる「ピンピンコロリ」)を目指しているので、くれぐれも社会復帰不能な状態になって病院に長いことご厄介になるようなことだけはしたくないものである。

(45分+20分)