杞憂

年金の支給開始年齢や標準報酬月額の上限の引き上げだとか、年金額の減額だとか、そういう議論がこのごろにわかに盛り上がってきた感がある。ただ、自分は年金のことには関心こそ払えど、心配は全くしていない。というのも、自分が長生きするとは思っていないからである。


日本の平均寿命は世界トップクラスであるが、この水準が今後もずっと維持されるとは思えない。あと20年くらいして、高齢者の過半を戦後生まれの世代が占めるようになると、徐々に低下してくるだろうと自分は考えている。今の高齢者は、戦中から終戦直後の食糧不足で衛生状態も良くなかった時代を生き抜いてきたタフな世代である。だから長生き出来た。しかし、戦後生まれはそうは行かない。食べ物は十分にあり(しかもよく噛まなくても食べられる柔らかいものばかり)、生活は便利で快適になり、体調が悪ければすぐに医者にかかって薬を処方してもらうことが出来る。そんな自然界とは切り離された環境で甘やかされてきた現代人が、年老いてもなお健康で元気に過ごせると考えるのは、あまりにも虫がよすぎると言わざるを得ない。今の50代(昭和20、30年代生まれ)までは旧来の生活を経験しているので、まだそこそこ長生き出来るだろうが、それ以降はがくっと下がると思われる。特に世代が下がるほど機械依存は強く、自力で安全や健康を守る「生活の知恵」といった伝統的な知識にも疎いので、自分が高齢者の仲間入りをする約40年後には、平均寿命は今より10歳くらい下がっていることだろう。自分も、年金を受け取って間もなく、あるいは軟弱ゆえそれよりも前に死ぬであろうことが予想される。従って、自分が受け取る年金の心配は不要であり、杞憂だというのが自分の考えである。


じゃあ年金の保険料なんて払うだけ無駄じゃないか、という意見もあろうが、しかし自分はそうは思わない。基本的には長生きしないと思うが、万一長生き「してしまった」場合には必要となる可能性がある(超長期投資で積み立てた金・プラチナの売却で賄うのが原則だが、足りなくなる場合もありうる)ので受給する権利だけは一応得ておいたほうがよい。それに何より、年金の保険料を納めるのは、これまで自分を育ててくれた(自分に投資してくれた)家族や地域や社会への恩返し、いわば「借金返済」としての意味が大きいからだ。自分の払った保険料は祖父母の年金の原資となって、間接的に祖父母にお金をあげることになっている。もちろん、保険料は支払うことが法律で義務付けられており、給与から強制的に控除されるものなので、払う払わないの選択肢はない。でも、だからといって反発するよりは、「身近な誰かのために自分のお金が役立つのだ」と考えたほうが納得が行くというものだろう。そんなふうに、世の中の様々な仕組みが存在する理由を、自分に納得出来る形に「置き換え」をして解釈してみると、より素直に生きられるようになるかもしれない。

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