抜歯 その1

今日の午前10時15分、自分は歯医者のイスに寝かされていた。これから行われる抜歯手術のことを考えて、心は不安でいっぱいだった。気分も悪かった。それは昨夜飲み会があったせいではなく、手術がどんな風に行われるのか、どんな感覚(触覚・痛覚)を伴うものなのかと具体的に想像してしまったために引き起こされたものだった。


今回抜歯するのは、(自分から見て)右の上の親知らずだった。麻酔を打つと、3種類の錠剤が渡された。痛み止め、化膿止め、腫れ止めの薬と説明された。歯医者で薬を服用するのは初めてだったが、3つまとめてぐいっと飲み込んだ。それから麻酔が効き始めるまでしばらく寝かされたときに考えていたのが、上段のことである。やがて悶々とした心に整理がつかないままに、手術が始まった。まず歯と歯肉の境に何かが食い込むような感覚があった。恐らく歯が抜けやすいように歯肉と歯を分離しているのだろうと想像した(実際そんなことをしたのかどうかは、直接見たわけではないので分からない。ただの検査だったのかもしれない)。痛みはなかったが、いよいよこれから恐ろしいことが行われるのだろうなと、不安が加速した。医者が「結構根っこがしっかりしてるみたいだな」とぼそっと口にしたこともあり、「やっぱりやめます」と言おうかいう考えが頭をよぎった。すると今度は、もっと恐ろしさを煽る発言が医者の口から飛び出した。「耳に近いので、『メキメキ』という音が聞こえるかもしれませんが、別に骨が折れているとかいうわけはないので安心してください」。不安は否応なく高まり、「もう勘弁してくれ」といった心境になっていた。そして、「じゃあ抜きますよ」という言葉ののちに、医者は何かの道具で、歯を横からぐーっと強く圧迫し始めた。椅子に頭を押し付けられる形となっていたので、自分も少し踏ん張って頭が動かないようにこらえた。その圧迫が解かれ、直後に医者が何か歯を「くいっ」とつまんでひねったような感覚があったかと思うと、「はい、抜けましたよ」という声が上がった。これからが長いものとばかり思っていたので、あっけない展開に、完全に拍子抜けしてしまった。「抜く」と言われてから抜けるまで、ほんの十数秒の出来事だった。痛みはおろか、抜ける感覚さえほとんどかったのは、散々頭の中で展開されていた悪い予想を完全に裏切るものだった。抜歯後はすぐに歯の抜けてできた穴を糸で縫い合わせたのだが、これも痛みはおろか、触覚すらもなくて、全然縫われている感覚がなかった。そのことに感動した自分は、今の麻酔は素晴らしい、医学の勝利だ、などと「現代の医療技術」に敬意を感じてさえいたのだった。


こうして手術はあっという間に終わった。患部に止血用のガーゼを噛まされた状態で5分ほど放置されてから体を起こすと、それを噛んだまま(このガーゼは昼食を食べるまでずっとあてがい続けた)、医者から抜歯後の注意点などの説明を受けた。曰く、「今日から数日間、食後3錠の薬(手術前に飲んだのと同じもの)を服用すること」、「患部に血だまりが出来ることで治癒するので、今日明日くらいは、血だまりが流れ出ないようなるべくうがいは避けること」、「傷口に刺激を与えてしまうため、固いものを食べるのは避けること」、「しばらくは出血が続くが、唾に血がにじむ程度であり、だんだん出なくなってくるので心配しなくていい」、「歯磨きの際は患部に直接触れないよう注意すること」、「止血用ガーゼを数枚渡すので、出血が沈静化するまでこれを噛んでいるようにすること」、「寝ている間に口の中から血がこぼれてしまうこともあるので、枕が汚れないよう今夜は枕にタオルを巻きつけて寝ること」などなど。そして、抜かれた歯がお披露目された。虫歯ながら、足が二股になったきちんとした形をしていて、ところどころに歯肉がこびりついていた。これを撮影しようか、持ち帰ろうかといったことも考えたが、この歯が生えてきたせいで迷惑を被っているのだという敵意というか嫌悪感のような感情があったし、自分の歯とはいえ愛着はなかったので、やめておいた。医者の説明が終わると、会計を済ませて帰った。どんだけとられるかと不安だったが、意外にも薬代を含めて1620円で済んだ。気分が悪くなって頭が鈍ったら危険だと思って自転車で医者まで来ていたのだが、頭もしっかりしていたのでこれなら車で来ても何の問題もなかっただろう。次の歯はいつ抜くのかについての説明がなく、それが気がかりではあったが、なにはともあれ痛みもなく簡単に抜歯手術が終わったことで、ほっとしながら帰宅したのだった。


しかし、むしろ問題だったのは、帰ってからのほうだった。口にガーゼを含んでいると、際限なく唾が出てきてしまうため、10分おき位に洗面台で唾を吐かねばならなかった。しかもその唾には抜歯した穴から出た血が混じっていて、口の中には常に血の味が広がっていることになった。今まで自分の血をこんなに「味わった」ことなどなかったので、不快だった。でもガーゼを取ると、歯の抜けたことによる居心地の悪さ、「手持ち無沙汰」とでもいうべき感覚に居てもたってもいられなくなるので、唾を我慢して噛み続けているほかない。参ったのは食事の時である。固いものは食べられないし、あまり食欲もなかったので、お昼はとりあえずそうめんを食べた。抜いた歯の反対側の、左側で噛むように気をつけた。食事中はガーゼを噛んでいられないのでむずむずするし、食べ物の味にもうっすら血の味が混じっているので、あまりおいしくない。食後はすぐに薬を服用。歯磨きは(医者からそうした指示はなかったものの)歯磨き粉をつけずに、ささっと簡単に済ませ、すぐにまたガーゼを噛んだ。それから、口の中の不快感と戦いながら、自室でじっとして過ごしながら今に至っている。痛みはないが、口の不快感で何もやる気が起きない。明日までにこの不快な状態が収まればいいのだが、明後日まで続いてしまったら、仕事にも影響しかねない。困ったものだ。


ただ、今回は真っすぐ縦に生えていた上の歯を抜いたので、まだ全然症状としては軽いほうなのである。問題は、あごの中に埋もれていて一筋縄では抜けない下の歯のほうなのだ。下の歯の抜歯後の穴には、食べ物も詰まりやすいし、治癒までにも相当期間を要することだろう。この先が思いやられるが、人生というスパンで考えれば、今のうちにまとめて片づけておいたほうが、きっとあとあと楽になるはずだ。そう考えて、前向きに治療に臨んでいけるようにしたいと思う。

(90分)