人格を疑え

今はすごくテンションが低い。何かもう、自分自身に対して、どうしようもなく呆れ返ってしまって、気を取り直そうにも全く手に負えない感じ。原因は、今日の自分が頭のネジが飛んでるとしか思えないような失態を演じていたことにある。


ネット上で自分のミスを大っぴらにするのは、愚行の重ね塗りでしかないので、何をしたのかということについては詳しくは述べない。だが、表面上の出来事ではなく、事態の本質を言い表せば、次のように言える。すなわち、そのミス自体は直接的に周囲に迷惑をかけたり、何か問題を引き起こしたりするようなものではなく、その場で消えてなくなるような軽微なものでしかなかった。しかし、その行為をしてしまった自分の姿が周囲の人の目に「常識的に状況を判断できればそんなことはしないはずなのに、平然とそれをしてしまうなんて、一体こいつはまともな頭があるのか?」みたいに人格を疑われ危ぶまれるような、単純だがそれゆえ象徴的で印象的なミスをしてしまった・・・ということである。実際、周りの人が自分のことをどう見たかなどということは、確かめようもないことだ。しかし、自分の中の「周りの人は自分のことをこういうふうに見ているはずだ」という仮想上の客観的自分像は、もうすっかり瓦解してしまった。積みあがっているかに見えていたプラスイメージが、一箇所に生じた亀裂を原因に全て崩れ去ったのである。少なくとも、自分の中の「常識的人物」の目からは、そのように観測されていた。作るのは大変だけど、壊すのは本当にたやすい。それはこの世界の全てに当てはまる真理である。しかも一度壊れたものは、以前と同じ手間をかけても同じように元に戻りはしない。人の、他者に対するイメージなど、その最たるものだろう。それが崩壊した後の状態というのは、例えていえば、核爆発が起きた後の爆心地のようなものだ。爆発は一瞬の出来事で爆風もすぐに拡散して消えるが、その跡は偏見という放射能で汚染されていて、復興しようにも近づけない。下手に近づこうとすると、自分自身が痛手を負ってしまう。放射能は時間の経過と共に薄れてゆくが、半減期は長く、人間の短い一生のうちに無毒なレベルまで減退することは、もしかするとないかもしれない・・・。


ちょっと後半、比喩に走りすぎて今回の事態とはいささか乖離してしまった気がするが、要するに「些細なミスで周りから重大な失望を買ってしまったかもしれない」と自分が大いに懸念しているということだ。そのことを、気に病んでいるのである。実際には周りの人たちは歯牙にもかけていなくて、自分の勝手な思い込みが激しすぎるだけかもしれない。だがたとえどうであったとしても、もう過去は取り返しが付かないし、今の職場の人とは毎日必ず顔をあわせなければなられない。自分にとって必要な態度は、自分の過去の行為を悔い改め、適度な緊張感を保ちながら、注意深く、誠意を持って、職務に当たるということに尽きる。それを実際に出来るようにするためには、自分自身が非常識であると認識すること、自分の人格に対して鋭い疑いの目を持つことが前提となる。その上で、「自分を直す努力」、「型にはめる努力」を続けなければならないということだ。他人と共通の基本的な人格的フォーマットを持っていなければ、人から受け入れてはもらえないし、型という基本から個性という応用段階へ到達することも出来ない。型にはまらずしてオンリーワンはない。型を無視したら、それは型破りではなく、「型落ち」でしかないのである。自分も人並みにならなければならないが、本来それは学校教育を受けている段階で身に付けなければならないものだし、長い年月を得てあらゆることを経験する中でおのずと形成されるものだから、いくらやる気があったところで、この年齢では今更・・・という感もある。そもそも、タチが悪いのは、今回のミスが全く自然に無意識にやってしまったことであるということだ。意図的にしか出来ないことならその時だけ注意深くなればそれで済むが、無意識にやっていることというのは、手の届かない心の深いところに起因しているものなので、改善は容易ではないからである。分かってはいたが、やはり「凡人」という理想に近づくことは、とても難しい道のりであるようだ。

(85分)