心の機微

今、あんまり気持ちが落ち着いていない。そわそわするし、前向きじゃないし、元気もない。1461日もあった大学生活が、とうとうあと1日、24時間ほどで終わってしまう。そしてその直後に社会人としての40年が始まる・・・。その劇的かつ厳然たる事実について考えると、とても冷静ではいられない。まだ何ら準備をしていないことに、焦燥感を募らせずにはいられない。明日は何をすべきなのか、出来ることは何なのかと考えてしまうが、しかしその答えは見出せない。


今日は自室の整理中、6年前の高校2年のときの日記帳を見つけた。1週間くらいしか使われなかったものだったのでとっておくのも邪魔だと思い、その内容をパソコンに打ち込んでからノートを処分した。当時の自分が書いていたことから分かったのは、「今の自分は当時と大して変わっていない」ということだ。朝二度寝をし、勉強をしようしようと思いつつ全くせず、家にいるのが好きで、自分のことしか考えていない。全部今と同じ。もうそれが自分の本質となってしまっているのだろう。本質的に変わらない部分、変えられない部分に。自分という人間の姿形というのは、これまでの人生においてもう相当に固まってしまっているのだ。それゆえ、これからの環境に果たして適応できるのか、そういう不安が消し去れない。かつて自分で自分の生き方を端的に表した言葉に、「目標に合わせて自分を高めるのではなく、今の自分に合わせて目標を下げる」というのがあった。それは初期状態の自分の限界の範囲を超えることが決して出来ないことを意味し、よく言えば無理をしないでそこそこの結果に満足できるということ、悪く言えばチャレンジ精神や向上心がないということである。そんな自分を自分としてとっくに「認めてしまっている」のだから、もうダメなのだ。すでに事足りてしまっている。「これ以上のもの」を目指していない。枯れているといってもいい。世界に着いて行こうとしていないといったらさすがに言いすぎかもしれないが、人に対して抱く感情が相対的に弱いのは確かだと思う。自分のことで頭が一杯なのだ。こんなこというのはなんだが、自分のような人間が行政に携わることにならなかったのは幸いだったかもしれない。社会は複雑化して混迷を深め、行政の機能や期待される役割は肥大化する一方。憂国心も郷土愛もおぼつかない自分にはとても勤まりそうにないし、そんな人間に仕事をされては迷惑というものだ。無能呼ばわりされ世間からの認識度も低い大学職員が身の丈にあっている。何より社会の目まぐるしい変化から半歩距離を置ける大学という立ち位置から、世間を少し俯瞰して見つめられるのがいい・・・。何となく、何を成し遂げるでも、何をしでかすでもなく、期待されないかわりに失望もされず、生きるともなく生き、ほどほどのところで死ぬ。そんな生き方をしていくことになるのだろう。


・・・と、なぜかつい弱気になってしまう。上に書いたのは半分は戯言なので、真に受けずちょっとブルーなんだな、と分かってもらえれば結構である。自分は昔から、普段は相当に楽観的なのに、何かきっかけがあると一気にどん底まで心が沈んでしまうという極端な思考をする人間なのだ。それゆえ就活のときは自分の気持ちのコントロールが出来ずかなり大変だった。今不安なのは社会に出ることが全く未知の体験であるからだ。自分の就く職業に対しては今のところ不満はないし、自分のような人間を雇ってくれたご恩に報いるべく不平不満は言わず一生懸命に仕事をするつもりでいる。はぁ、やっぱり突き詰めて考えちゃうとよくないね。ある程度頭を空っぽにして自然体で柔軟に対応したほうがうまく行きそうな気がしてきた。明日は1日以降の準備をしつつも、今まで通りにリラックスして過ごすとしよう。学生時代にやり残したことなんて多すぎて数える気にもならないので意識しないでさっさと忘れるとしよう。忘れるのは得意だ。仕事は決して楽ではあるまいし、楽であることなど期待していない。大切なのは何があっても離職だけは絶対にしないこと。最初の3年間は何があろうと辛抱しなくてはならない。3年を過ぎれば、段々裁量の余地や仕事の幅も広がって余裕が出てくるというから、それまではとにかく辛抱強く頑張らなければ。ここまで歩んできた平々凡々な小規模な人生を失うことは絶対にしたくないから。

(100分)