混迷

近頃、ブログの更新をサボってしまっている。週に2回くらいしか更新していない。その上、記事を投稿したとしても、パソコンの前でしっかり考えて書き上げた文章ではなく、携帯からアップしたネットに晒すのも恥ずかしいような中途半端で未完成な記事ばかり。2009年10月の開設以来、ブログのことを忘れた日は一日たりとてない一方で、書こうという意思を固められずにブログを更新できなかった日ばかりが積み上がっていく。この情けない事実に、自分自身歯がゆい思いを強めている。文章を書くというのは、自動車の運転のようなもので、毎日やっていると特段悩むことなくごく自然にスムーズに出来るのだが、しばらく間が空くと「あれ、どうすればいいんだったけ」ととっさに次の行動(言葉)の判断がつかなくなり、挙動(文体)がぎこちなくなってしまう。文章を書く能力を維持するためには、毎日書くことが大切なのだ。それと同じくらいに、文章を読むこともまた欠かせない。語彙力を高め、熟語や言葉遣いを学ぶため、また多角的な物の見方を身につけるために、誰かの書いた本を読むのはもちろん、自分の書いた文章を読み直すのもとても大きな意味がある。自分の書いた記事を読み直すと、すっかり忘れていた大事なことを思い出すことが出来るし、自分の考え方というのが明確になり、自分のしてきたことに自信を持てるようになる。哲学者のフランシス・ベーコンは、「書くことは人を確かにする」と言ったそうな。なるほど確かに、書くことによって自分の頭の中のものを外部化することで、初めて自分を客観的に見つめるための前提が築かれるという気がする。自分にとって、書くことは、自分自身と向き合うことなのだ。何も書かないまま、無作為に過ぎゆく時間をただ見送るような日々を送ることは、自分自身に対する罪であるといっても過言ではない。


・・・とここまで、書くことの重要性を説いたのは、ほかでもない。自分自身の心が、今、とてつもなく揺らいでいるからだ。「ドイツ行き」という問題に対して、「行きたくない」という否定的な気持ちと、「観念して受け入れよう」という受容的な気持ちとが自分の中で激しく拮抗しているのである。最初に課長から「行ってくれないか」と言われたのが、5月11日。その時は非常に困惑し、「自分には絶対無理。特にホームステイなんてあり得ない」と思って頭が真っ白になったものの、上からの命令である以上、断ることは出来ず、全くポジティブなイメージが沸かないまま了承。それでも、出発日が8月7日とまだ少し時間があったこともあり、その後しばらくは心の平静を保って過ごすことが出来た。志望動機や申込書も、作文だと思ってそれらしいことを書いてやりすごせた。一応、週に数回はドイツ語の勉強もするようにした。だが、残り1カ月に迫り、今まで考えないようにしてきた現実が目前に迫ってきて、とうとう感情が抑えきれなくなってしまった。「何で自分が?」「日本人相手でもうまく付き合えないのに、外国人とうまくやれっこない」「なぜあの時、『自分にはとても勤まりそうにありません』ときっぱり自分の気持ちを言わなかったのだろう。断ればよかったのだ」「自分のようにやる気のない者が行くのは、ほかの参加者に対して失礼でしかない」・・・と、とにかく「現実から逃げたい」という気持ちがはち切れんばかりに心の中を暴れ回っている。嫌なことから逃げようとするのは、心の防衛反応としては正しいかもしれない。だが、社会人としては最悪だ。恐ろしく幼稚な感情であると言うほかない。困難な壁が立ちはだかったら、まずはいかにしてそれを乗り越えるかを考えるのが、向上心のある正しい人間の姿だと常々思ってきたが、そう考える自分自身がそれを実践出来ないロクデナシであるという現実が露わになった。今までに遭遇して来た困難は、所詮大した困難ではなかったのだ。自分の存在を揺るがすほどのものではなかった。だから、今回のような不可抗力的な現実に対して、立ち向かえないのだ。一方でそのことに対して、恥ずべきことだと思う気持ち、これは運命なんだと受容しようとする考え方も、自分の中にはある。ここまで来たら、もう逃げられない。去年の誕生日に、「面倒なことほど優先順位を高める」と誓ったではないか。「旅の恥はかき捨て」とは決して思えないが、これが貴重な経験になるだろうことは間違いないし、何にせよ行く価値はあるはずだ。どうせお金はほとんどかからないのだし、行ってくるだけ行ってこようという立場である。これが、逃避的感情と戦っていることで何とか少しずつ準備を進められているものの、戦いによる副作用で心が不安定になっているのも事実だ。ただ、後者も決して「ドイツへ行くのが楽しみで待ちきれない」というような前向きで積極的な感情ではない。あくまで「仕方ない」という一種の諦観が根幹を成している。というのも、「仕事も生活も、今までずっと楽をしていたから、罰があたったのだ。『身の施し方を改めよ』という天啓なのだ」という因果応報的な考え方が強く存在するからである。仕事として海外に行くことを「幸運」と捉えず「罰」というのは傲慢だと思われるかもしれないが、自ら望んだのではない以上、恵まれているというふうには考えられない。あくまで「仕事」として、「ドイツで見聞きしたことを帰国後に職場に戻ってから役立てる」というスタンスで貫くつもりだ。ただ、何がどう役立つかは、全く予想がつかないが。


そんなこんなで、心の中にうずめく感情を吐き出したのには、訳がある。この土日に東京で実施される「事前研修」(一泊二日の合宿)に参加するに当たって、心の整理をしておこうとおもったからだ。出来れば、弱気な気持ちを排除して、淡々と現実に向き合えるようにしたかったのだが、この期に及んで相変わらず「明日の朝、高熱に襲われて行けなくなればいいのに」と、まるで中学時代の部活の試合前夜のようなことを考えている有り様なので、何の心の準備もなしに、明日を迎える羽目になりそうだ。本当は、自己紹介や出し物のアイデアなどを綿密に仕立てておこうと思ったのだが、こうなってはもはや行きの電車の中で急ぎ組み立てるほかない。ほかの参加者の失望を買うかもしれないが、下手に見栄をはろうとして、途中でボロを出すよりは、最初から自分がどうしようもない人間だと理解してもらったほうが、むしろ順調に物事が進むというものだ。もちろん出来る限り最善を尽くすつもりではいる。明後日の夜には、「心配していたほどとんでもない事業ではなようだ」と不安な気持ちが和らいでいることを願いたい。


もう、たくさん書き過ぎて、何だかまとまりがなくなってしまった。眠くて何を書いているのか分からなくなってきたのもある。短くても、趣旨のしっかりした文章を書くように心がけ、残り1カ月は毎日ブログを更新できるよう努めたいと思う。

(150分)