一身独立

「あなたの国があなたのために何ができるかを問うのではなく、あなたがあなたの国のために何ができるのかを問うてほしい」
(Ask not what your country can do for you,
 ask what you can do for your country.)
ジョン・F・ケネディ大統領就任演説(1961 年)より
引用元 https://americancenterjapan.com/aboutusa/translations/2372/

 

これはケネディ大統領の演説の一節として、あまりにも有名な言葉だ。10年ほど前に知って、感銘を受けたのを覚えている。同時期に「学問のすすめ」を読んで知った福沢諭吉の言葉、「一身独立して一国独立す」とも通底する普遍性を持っていると思う。すなわち、国民一人ひとりが、主権者としての意識、自分自身がこの国を支える主体なのだという強い自覚を持って、自分の国の在り方を考えること、そして自分の国の発展に向けて自分なりに行動すること、そうした個々の営みの集合体こそが国家という概念の本質であり、その国の国力そのものである・・・という考え方である。自分はケネディの言葉をそんなふうに解釈しているし、自分自身もかくあるべしと、ことあるごとに思い出しては胸に刻みつけてきた。

 

だから、何か社会一般で問題が起きたときに、行政がもっと関与すべきとか、国が責任をもって何か補償をすべきとか、そういった論調を見かけると、非常に違和感を覚える。国を自分とは無関係に存在する第三者として捉えて、好き勝手にあれこれ要求する人がいることに対する違和感である。国、政府などというものは、本当はどこにも実体なんてなくて、それは人々が存在すると信じるから「存在しているように見える」程度のものに過ぎない。そして、国の存在基盤は本来、自身が国民であると自覚する人々の主体的な意思と行動に依拠している。だから、あらゆる課題の最終責任を行政に求め、行政が「してくれる」ことに一方的に期待した挙げ句、何か不備があると徹底的に非難したりする近年の日本社会の風潮は、ケネディが訴えた姿からあまりに乖離していると言わざるを得ない。自分の国、自分が住む街、自分の働く職場、自分の家はどうしたらいいか・・・。今回のことに限らず、あらゆる問題は「自分」を主語に考えて、自分が置かれた環境で、できる限りの最善策を取るしかないのだ。いわゆる、自助の精神である。それが一身独立した国民の行動だと思うし、誰かの責任を追及するのは単なる時間の無駄に過ぎないと自分は捉えている。このブログの執筆における一人称が最初からずっと「自分」なのも、そうした観念の表れの一つだと言える。

 

この世界で起きている事象は、社会問題であれ、環境問題であれ、経済情勢であれ、「自分の問題」として当事者意識を持つべき課題である。職場が何も対策を講じなくても、行政の対応がどうであろうと、最後は自分で責任を持って対処するしかない。自分の国の独立は、自分自身の独立で守る・・・大変なときにこそ、最も基本的なスタンスとして、その覚悟を忘れないでいたいと思う。

 

(70分)

「ながら」の常態化

相変わらず、休日はほとんど24時間、子供とつきっきりで過ごしている。子供と離れる時間は、個人的な買い物や朝活読書会、消防団などの用事があるときだけだから、土日合わせても2 〜3時間くらい。用事が何もなければ、離れる時間もゼロになる。子供と遊ぶのは楽しいが、いたずら盛りの2歳の子供と真剣に向き合うには、体力も気力も忍耐力も必要だから、とにかく大変である。子供が元気であればあるほど、大変さは増すことになる。だから土日祝日は、自分にとっては平日と変わらない。いやむしろ、平日の昼間より困難な仕事だと感じている。


子供と一緒にどんなことをしているかという話はまた別の機会にしたいと思うが、家事をしながら育児をし、休日は何もしない主義の妻の面倒も見なくてはいけないので、とにかく自分自身のことに集中できる時間がない。一人で家から出られないので、自転車で走るといった趣味はもちろんできないし、ゲームや漫画のような娯楽もできない。少しでも気分転換するためにできることは、すべて、家事育児と並行して「ながら」でやれることだけである。例えば、台所で炊事をしながら録画したテレビ番組の音声だけ聴くとか、子供をおんぶしながらスクワットして筋トレするとかいった具合だ。新聞を読むとか、スマホをいじるとかいったことは、例え短時間であっても子供から目を逸らすことになるので、妻から厳しく禁じられている。読書も同様なので日中にはできない。車のながら運転はもってのほかだが、育児中の家庭では、ながらでできることで気分転換を図らないと、心理的にアップアップになるというのが自分の認識である。休日はずっとこんな調子なので、日記は何も書くことがなくスカスカの真っ白なページばかりである。加えて言えば、記録行為も妻からすると「時間の無駄」なので、妻の入浴中か、平日の昼間職場にいるときしかできない。このため白紙化はますます顕著になっていくことになる。

 

ながらでもいいから、何か自分自身のための行動をしようとするのは、気分転換であると同時に、知識を得たい、昨日より一歩進んだ自分でありたいという向上心の表れであるとも言えるかもしれない。だから妻に批判されるリスクを冒してでも、1分でもいいから、そうした行動をとろうとする。完全に育児家事以外何もしないと決めたら、妻との問題だけ考えれば今より平和になるかもしれないが、それは無給の労働に甘んじて自分自身のことを一切諦めるということであり、自尊心と向上心を放棄することにほかならない。いくらなんでも、そうなったら、人間として、もうお仕舞いというものだ。家事育児は大切だし自分も頑張っているが、だからといって「家事育児マシーン」ではない。一人の人間として、まだ生きているうちに、元気のあるうちにやりたいこともある。

 

ながらでの抗いは、人間としての尊厳を守るための闘いだ・・・。勝手にそんなふうにぶち上げて、これからも時間を勝ち取るためのたった一人の闘争は続く。

 

(40分)

年度末、来たる

「1 月は行く、2 月は逃げる、3月は去る」という言葉がある。年明けから年度末にかけての慌ただしさ、時間の短さを言ったものだ。今気づいたが、それぞれ月と動詞の頭の音で韻を踏んでいる。それを知ってしまえば、割と覚えやすい言葉である。

 

そして今日から3月になった。例年、業務が非常に集中して、絶望的で破滅的な状況が常態化する時期である。今もそのことが頭をよぎって、朝起きた直後だというのに早速憂鬱な気分になり、いてもたってもいられずに記事をしたためてしまった。どうすればいいんだと山積する課題に頭を抱えつつ、でも何だかんだで年度内に押し込み、曲がりなりにも片を付けて、これまで乗り切ってきたのも事実である。年度末には見えないところで、きっと不思議なメカニズムが働いているのだ。

 

周りの人の力も借りながら、今年も何とか年度末というラスボスをやっつけて、肩の荷を軽くして新年度4月を迎えたいものだ。そのために、風邪や病気にならないよう、心身を、特にメンタルを丈夫に、健全に保って過ごすことを常に心がけたいと思う。

 

(20分)

イクシゴ論(2)「残業ゼロは「仕事汚染」の悪夢を見る」

昨年4月に今の部署に異動してからというもの、自分と妻の間で慣例的に「18時半までに職場を出る」というルールが形成され、今日までそれを堅持してきた。家族みんなで19時前に夕飯を食べるために、妻から帰宅時間を固定するよう強く求められたのがきっかけだった。少しでも遅れようものなら、ジゴスパークが発動して致命傷を食らうから、定時後は時計を頻繁に気にしながら仕事をし、リミットが来たらどんなに中途半端だろうとそこで作業を断ち切って帰るようにしている。このルールは絶対なので、仕事が溜まっていたり、急な仕事を振られたり、課長以下ほぼ全員がまだ残っていたりしても、自分は一目散に帰る。例外は緊急事態が起きたときと、予め残業を命じられていたときくらいだから、年数回あるかどうかだ。毎日1時間程度は居残っているものの、どの部署も毎日3〜4時間残業が当たり前の職場なので、実質的にはほぼノー残業の状態だといえる。家庭で過ごす時間が長くなった分、洗濯物の取り込みや子供の入浴、寝かしつけなどの家事育児に充てる時間も増えたし、妻と話す時間もかなり取れている。話がヒートアップして喧嘩に発展するリスクも高まったのは玉にキズといったところだが、毎日家族団らんできるのは子供にとってもよいことだと思う。

 

ただ、自主的なほぼノー残業の徹底は、様々な副作用も招いている。

 

第一に、年収の低下である。自分の過去1年間の残業時間はその前の年に比べて激減したが、残業代がほぼなくなった結果、年収が約50万円も下がった。妻から貯金額の上積みを求められているところに、この年収減は大きく響いた。社員思いの民間企業なら、働き方改革の推進と社員のモチベーション向上の両立に向けて、残業を減らしたら、賞与をそれ以上に上乗せして報いてくれたりするものだが、自分の職場にはそういったインセンティブは一切ない。従って、仕事の効率を極限まで高めている自分は金銭的に損をし、漫然と今までどおりやっている人たちは残業代を稼ぐという矛盾が拡大している。

 

第二に、持ち帰り残業や休日出勤の発生である。何とかして残業しないように仕事をやりくりしてはいるが、締切が迫っている案件の場合は翌日に回せないこともある。特に、異動1年目のくせに毎日ほぼ定時の自分の仕事内容を上司は当然心配しているので、進捗は早めに報告しないといけないし、やり方が間違っていた場合の方向修正のためにも、一刻も早く素案を作って確認してもらう必要がある。となると、月に何回かは、帰宅して家事育児を済ませた後、妻と子供が寝た深夜に自宅のPCで仕事をせざるを得ない。作業的にはクラウド上での文書作成やメール作成等で、情報漏洩や書類紛失は構造的に起こりえないように注意している。ただ、会計システムへの入力など、どうしても職場でしかできない作業もある。そうなると切羽詰まった最終手段として、休日の早朝や日中に自主出勤せざるをえなくなる。持ち帰りにしろ、休日出勤にしろ、完全に無給なので、いわゆるヤミ残業に外ならない。給料面での損失は膨らむ一方、妻からのタダ働きの非難も高まる一方で、苦虫を噛みつぶす思いだが、こうでもしないと仕事が破綻を来すので、嫌々ながらこの現実に甘んじている。

 

第三に、仕事のことが常に頭から離れないことである。帰宅時間のリミットがあるため、常に仕事が中途半端な状態で帰宅せざるをえない。これが意図せざるツァイガルニク効果を招くことになる。半端なままの仕事のことが、帰宅しても、休日でも、頭から離れないのだ。かなり切羽詰まった仕事の場合は特にたちが悪く、夢の中にまで出てきて、焦燥感に拍車をかけることになる。心理的なダメージという意味で、この「仕事汚染」が最も深刻な副作用だと感じている。

 

平日の家事育児参画のための個人的努力の結果としてもたらされるこれらの問題について、今の自分職場では何のフォローもない。子育ての終わった、あるいは独身の中高年が大半だから、今後も改善の取組がなされることはないだろう。さらに効率化の努力をして圧倒的なパフォーマンスを発揮すれば、一時的に第二、第三の問題は解消できるかもしれないが、そうするとまだ余裕があると見なされてさらに新たな仕事を振られる地獄の悪循環を招きかねない。答えのない葛藤の日々はまだまだ続きそうだ。

(50分)

冬到来


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昨日から今朝にかけて、市内の平地に雪が降り積もった。おそらく昨年12月初旬以来となる積雪だと思う。今年の冬はずっと雪がない状態が続いていて、雨だったりポカポカした晴天だったりと、全く季節感のない天候に見舞われていた。この降雪で、やっと冬が来たという実感を覚えたのは、自分だけではないはずだ。今が何月何日なのか、ここは果たして本当に新潟なのかと、時間感覚、地理感覚が狂ったような妙な気分に毎日苛まれてきたが、この雪のおかげで感覚が正常にリセットされた気がしている。外は寒いし、車の運転にもいつも以上に神経を使うが、それでも自分には今回の降雪がうれしく感じた。スキー場や除雪業者にとっても、恵みの雪であることだろう。ただ、寒波は一時的なもののようだし、せいぜい10センチほどしか積もってないから、せっかく積もった雪も数日後には跡形もなく消えてしまう。まだ春でもないのに、雪のない田んぼが広がる景色を見ることになるのは、残念でならない。自分勝手なことだが、この寒波が、できるだけ長く、美しい雪景色を守ってくれることを願っている。


(15分)

初滑り2019-2020

1月14日火曜日、振替休日を利用し、地元の杉ノ原スキー場で、今シーズン初となるスキーを楽しんできた。3回しか行かなかった昨シーズンの初滑りと滑り納めもこのスキー場なら、一緒に行った相棒も滑り納めのときと同じ友人だった。少雪が続く近年だが、今年は群を抜いて異常な暖冬で、平地には雪が少ないどころか全く積もっていない。スキー場も事情は同じで、標高の低いコースはブッシュや土や普段なら雪に隠れているゲレンデ上の道路が露出していたり、コースが一部閉鎖されていたり、気温の高さで雪質が低下したりと、スキー場本来のポテンシャルを発揮できない残念な状況だった。それでも、晴天の上、若干の新雪もあったので、白銀の世界を疾走する爽快感は格別だったし、貴重なスキーの時間を半日存分に楽しむことができた。友人と会うこと自体も最近はなかなかないので、ざっくばらんに取り留めもない話ができたという点でも、いつもと違う時間を過ごせた気がした。やはり、雪山というのは、自分にとって大切で特別なリフレッシュの場なのだと実感したのだった。


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子供も大きくなってきたので、おそらく来シーズンには、一緒にスキー場に連れていくこともできるだろう。スキーにはまだ早いが、ソリで滑るくらいなら3才でも十分できるはずだ。早く子供連れで週末にスキーに行ける日が来て欲しい・・・雪のない平地から白く染まった山を眺めながら、そんなことを頻繁に夢想している。

(30分)

イクシゴ論(1)「連休=連勤説」

今日は火曜日だが、自分に限っては仕事は休みである。今週土曜に休日出勤があることに伴う振替休日を充てたためだ。昨日まで成人の日の3連休だったところに振替をつなげたので、妻には「自分だけ4連休か」と批判された。だが、元々水曜日に取るつもりだったところ、上司の都合で火曜日に変更してたまたま4連休になったものなので、批判されるのは筋違いだ。

 

そもそも、自分は3日以上の連休というものが大嫌いだ。社会人になってから、休みすぎると休みボケの症状が出て、仕事復帰後に支障を来すということが分かり、長すぎる連休を忌避してきた。年末年始休暇がたまたま9連休になったときには、6~7日目くらいにリハビリと称して休日出勤するのが恒例だったし、今回しかり、振替を取るときは連休に接続しないように注意してきた。連休嫌いがさらに顕著になったのは、育児をするようになってからだ。育児中ではない社会人にとっては、休日は「仕事から解放される日」「趣味や交友に充てられる日」あるいは「何にもしなくてもいい日」だろう。何をするか、どんな日にするかは自分で選べる。だが、育児中だと自動的に「丸1日子守をする日」になる。よっぽどのことがないと、これ以外の選択肢は選べない。そのため、朝から晩まで子供に付きっきりで、食事、おやつ、昼寝、遊び、入浴、就寝の世話をすることになり、その合間に掃除、洗濯、炊事といった家事をやることになる。時々スーパーに買い物にも行くが、ほとんどは自宅で過ごす。特に今は冬季でインフルエンザの流行期なので、安易に人で混み合うところには行けないから、余計に引きこもりがちになる。中身的には、手待ち時間(空白時間)もかなり長いが、2歳半の子供は何をしでかすか分からない(床や机に落書きしたり、食べ物を散らかしたり、自分でドアを開けて部屋から部屋に移動したりする)ので、片時たりとも注意は逸らせない。そのため、精神力と体力を非常に消耗することになるし、自分の時間など無いに等しい状態になる。だから、育児中の場合、休日とは心身を休める日ではなく、「1日家で働く日」なのであり、連休とは「連勤」にほかならないのであるむしろ平日の勤務日のほうが、昼休みという自由時間があり、適宜休憩できる分、身体的には負担が少ないほどだ。連休を喜べるのは、育児という義務を負っていない人の特権であり、相手に構わず有休消化のためにやたらと連休を勧めてくる管理職は、育児中の部下に対する想像力が欠如していると断じざるを得ない。

 

そういうわけで、今の自分には連休はうれしくないし、休日自体が純粋に歓迎できない存在だ。普通の土日ですら、金曜日の夜は「さあ、これから頑張るぞ」と気を引き締めているくらいである。その唯一の例外が、平日の振替休日だ。子供は保育園に預けるので、この日だけは文字通り休めるし、自由に使える。強制的に取るものだから、有休と違って妻に指弾されても気にならない。年に4~5日あるかどうかという貴重な休日である今日を、自分のために、ぜひ有効活用すべく、朝5時に起きてこの記事を書いたところである。

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育児と仕事に奮闘する男性が抱える思いを代弁するべく、今回から「イクシゴ論」というタイトルでシリーズ記事を書くことにした。前提として、育児を嫌だとか面倒だとかいうのが本旨ではなく、大変なことを大変だと正直に言って正面から向き合ったその上で、育児をいかに前向きにとらえ、乗り越えていくかということを目指したものであるということを念押ししておきたい。あくまで自分が個人的に感じたこと、自分の環境において生じたことなので、どこまで普遍性があるかは全く分からないが、たとえあってもなくても自分にとってはこれがひとつの鬱憤晴らしにはなるので、なるべくコンパクトにすることに留意し、月2回以上を目安に更新していきたいと思う。

 

(40分)