喉元過ぎても

5月25日までにすべての都道府県で緊急事態宣言が解除された。これでコロナ禍は「終わった」と考えて、以前の生活に戻そうとしている人も少なくないように感じるし、自分の職場だけ見ても、(形式だけで中身は個人に丸投げの)在宅勤務や(自分の課だけがなぜか特例的に会議室を使って実施した)分散勤務が終了したり、ソーシャルディスタンスを保たずに対面で会話や打合せをしていたり(宣言下でも今までとあまり変わっていなかったが)と、誤解を恐れずに言えば、まるで台風一過のごとき明るい雰囲気が漂っている。自分の周囲だけを見ていると、コロナ禍は「マスク着用」と「手指消毒」の習慣化というレガシーのみを残して、ものすごいスピードで過去に追いやられつつある。

 

ただ、自分はこの状況に対して、現時点では極めて懐疑的に受け止めざるを得ない。マスコミなどがアフターコロナだ、いやウィズコロナだと、次々と新語を繰り出しながらかまびすしく言っているように、社会は第二次大戦後や東日本大震災後のように、それ以前には戻れない不可逆的な変化を強いられることになるはずだ。季節を問わずマスク着用は外出時のデフォルトになるし、満員電車のような「密な場所」はこれまでにもまして生理的に避けたくなる。リモートワークへの対応として、労働者の仕事の結果が労働時間よりも成果で測られる傾向が強まるだろうし、時間の浪費に加えて密集密接のリスクもあるとなれば、「忘年会スルー」で顕在化した、気の進まない飲み会に参加しない選択をする人はますます増えるだろう。つまり、これまで通りのやり方、これまでと同じ考え方では通用しない場面がどんどん増えるということであり、あらゆる場において新たな物差しに対応し、多様な価値観に配慮する工夫が強く求められるということなのだ。それが、いわゆる「ニューノーマル(新常態)」の社会ということであり、この急速かつ強烈な変化に対応できない者は、自然淘汰される宿命にあるということでもある。コロナ禍はまだ何も終わっておらず、むしろ始まったばかりなのだ。だから、その前提を抜きに、元に戻ろう、早く戻そうということだけしか考えていない人たちには、自分は強くノーと言いたいのである。

 

翻って、自分自身はどうだったかと言うと、ステイホームが強く叫ばれていた時期も、生活スタイルはほとんど変わらなかった。休日は元々子供の世話でずっと家に居り、外出と言えば近所のスーパー、公園、市内をどこに行くということもなく何となくドライブするくらいなもので、自粛を求められるまでもなく、ずっと前から自粛生活そのものだった。リアル飲み会もないので、リモート飲み会もやっていない(ただし、Meetでのリモート読書会は開催した)。わずかに影響を受けたのは、大型連休中に行くはずだった1泊2日の佐渡旅行や隣県の妻の実家への帰省を中止せざるを得なかったことくらい。ただそれもいつでも出来ることなので、さほど大きな問題ではない。新しい生活様式で推奨されている生活習慣についても、帰宅時の手洗いうがいの励行なんてのは、小学生の頃からずっと当たり前に続けてきた(ここ数年は、顔さえもばっちり洗顔フォームで洗っていた)し、誰とどこで会ったかの記録も、タイムテーブル形式の日記(「日毎総合行動記録」と呼んでいる)で少なくとも14年前までは遡れる。混雑、渋滞、行列は元々大嫌いなので、新規開店で混んでいる店には人が少なくなるまで立ち寄らないようにしてきたし、大都市に遊びに行くこともほとんどないから、元々「3密回避」的な行動を自ら取っていたと言える。だから、生活習慣的にはあまり変わっておらず、逆に自分の獲得してきた習慣をこれからも続けていく重要性を再認識した、というのが実態だ。新しい生活様式というのは、言うまでもなく当たり前のことばかりが並んでいるかもしれないが、その当たり前こそが大切でかつ続けるのは難しい、ということを訴えているものなのではないかと個人的には思っている。

 

そんな訳で、新型コロナとともに過ごす日常はこれからも続き、仕事上では様々な変化への対応が求められ続けることになる。新規感染者数が少なくなるとどうしても意識が薄れがちだが、自分自身の感染リスクにも当然留意して、「自分はすでに感染しているかもしれない。目の前の人を感染させてしまうかもしれない。」という「かもしれない思考」を常に続けないといけないはずだ。効果的なワクチンが開発されるまで人類全体が「かもしれない思考」での行動を続けない限り、地球上からこのウイルスの脅威が消えることはない、かもしれないというように。喉元過ぎても、コロナ忘れず・・・そう肝に銘じて、今日もまたマスクをつけて出勤するとしよう。

 

(70分)