イクシゴ論(3)「「形状記憶組織」というラスボス」

新型コロナウイルスによるパンデミックで、新潟県を含む全国に緊急事態宣言が発令されたことを受け、自分の職場でも出勤人数を減らして接触を出来るだけ避けるための取組として、4月途中から「在宅勤務制度」が導入された。

 

制度といっても、急ごしらえで開始されたため、中身としては、在宅での仕事も出勤と認める、会社貸与の個人用ノートPCを仕事のために家に持ち帰ってもいい、という2点くらいなもの。在宅でどうやって仕事を進めるかという具体的な議論や支援策、在宅での労働時間を管理をする手段はなく、実際の在宅での働き方は各自の工夫に任せるという、職員個人に一切を丸投げするような対応だった。それでも、制度ができたこと自体は画期的だったし、家庭環境等に様々な事情を抱える個々の職員に応じた多様な勤務形態を用意し、働き方の柔軟性を高める面からも、在宅勤務はコロナ禍以前から始まっていた社会の変化の方向性にも合致していた。だから、今後各自の知恵を出し合って、より制度的な拡充を目指すべきだと思って自分は前向きに捉えていた。そして、生産性を高めるために、無駄な作業工程の洗い出しをするなど、コロナ禍を業務のスクラップアンドビルドを進める千載一遇のチャンスとすべきだと思っていた。だが、県内の緊急事態宣言が解除された途端に、組織が「在宅勤務はもうおしまい」という方向に素早く舵を切ったことで、自分の期待はあっけなく打ち砕かれてしまったのだった。(ちなみに、自分の課では事務室を2つに分ける分散勤務体制だったため、自分は在宅勤務は行わずじまいだった。)

 

ダイバーシティへの対応、働き方の柔軟性向上のための取組は、自分の職場でもこれまでいくつか導入されてきた。例えば育休制度、介護休暇制度、毎週水曜日のノー残業デーの設定、1時間単位で年休が取得できる労使協定の締結などである。ただ、ほとんど全てが法律の施行など外部的な圧力を受けて重い腰を上げて作られた義務的かつ必要最低限の内容のものだったし、規程を整備することをゴールとしていたから、組織的に制度の利用を促進するような働きかけはほとんどなく、実際にはあまり活用されてこなかった。そして今回の在宅勤務も、社会に不可逆的変化をもたらしつつあるとさえ言われているにも関わらず、自分の職場においては、時限的で一度きりの措置として、今まさに葬られようとしている。

 

一般企業では、優秀な人材の確保と定着を目指すため、働きやすい職場の実現に心血を注いでいるというのに、なぜ自分の職場では新たな制度を継続し定着させる流れが生まれないのか。ドラッカーの説くマネジメントと正反対のことが起きているのか。その原因は、50歳台で勤続30年を超えるベテランが職員の半数以上を占めている極めて同質性の高い組織であるという点にあると自分は考えている。彼らは、家庭のことを配偶者や同居する両親等に任せ、無条件かつ無制限の長時間労働を是とする昔ながらの正社員の働き方を長年続け、それを今でもスタンダードだと信じている世代である。そして、管理職から一般職員まで、その古き悪しき働き方にどっぷり染まっている人達が組織の過半を占めていて、その働き方をみんなで実践しているものだから、一向にそれを変えようなどと顧みられることがないのである。仮に時のトップの鶴の一声で残業削減が目標となっても、あくまでスローガンに留まって実効手段が伴わないから、しばらく経つとやはりまた以前の慢性的残業が復活する。何をやっても元の木阿弥なのである。したがって、この職場においては、「残業ができない」という制約を抱える職員は「異質」と見なされ疎外されるか、あるいはその制約を無視され残業ありきの仕事を当然に要求されるかのどちらかの状況に追い込まれてしまう。例えば、定時を過ぎて1時間経っても、ほとんど誰も帰ろうとしないこと、定時後も内線電話がかかってきたり、上司から仕事の指示が下りたりすること、ノー残業デーでもそうした状況が他の日と何ら変わらないことなどが日常となっている中で、毎日ほぼ定時で帰る職員がいれば、実際問題として周りから浮いてしまわざるをえない。帰宅後もそれぞれの家庭環境において職業上の仕事とは異なる意味での労働を続けているにも関わらず、ただ残業ができないということによって居心地の悪さを感じてしまうのであれば、それは到底働きやすい職場とは言えないだろう。仕事の努力や成果を労働時間の長さ以外の尺度で評価しようという概念も見当たらない。決して変わろうとしない、働き方を変えることに頑として抵抗するこの組織は、いわば「形状記憶組織」とでも呼ぶべきものである。一時的に力が加わって形が変わっても、一定時間が経つと必ずまた元に戻ってしまう。改善の取組が定着せず、旧態依然としたやり方がいつまでも繰り返され続ける。こうした組織こそが、育児と仕事の両立を阻む最大の敵、いわばラスボスなのである。そして、そんな組織に、またそこで働く個人に、目覚ましい成果や成長がもたらされるとは到底思えない。

 

今や、共働き核家族世帯では夫婦ともに家事育児を担うことが一般的である。三世代同居で女性が家事育児を専ら負担するような家庭を標準として、「男性は誰でも長時間労働が可能で当然」という認識を持っている人達がいるとしたら、それは完全に時代錯誤だ。少なくとも自分は、あからさまに見え隠れする周囲の旧時代的な認識に、「働きにくさ」を強く実感している。また同時に、勤務時間内に仕事を進めるために効率性や正確性を高める努力が、残業の削減による給与の減少という負のフィードバックをもたらす矛盾に直面し、著しいモチベーションの低下にも見舞われている。今、自分のような職員は、働き続けることの岐路に立たされているといっても決して過言ではない。そして、それは同時に組織の持続可能性の危機でもある。50代の職員は、あと10年経てば半分以上がいなくなっている。その人達の都合で、今後20年、30年ここで働かなくてはいけない若い世代に負担のしわ寄せがくるのは、どう考えても納得がいかない。そう思って我慢の限界を超えたとき、優秀な人から先にこの職場を去って行くことだろう。

 

形状記憶組織というラスボスと戦って新たな秩序を築くか、それとも不毛な戦いと見切りをつけて逃げるか。自分の心の混迷も、いよいよ深まりつつある。

 

(90分)

 

 ※注:「形状記憶組織」という言葉は、『これだけ!PDCA』(川原慎也、2012年)から引用した。