参政権 その1

自分は、選挙の際には必ず投票に行くことに決めており、これまでずっとそれを実践してきた。支持する政党はないし、誰に投票するかはその日の気分次第で決まる。宗教政党や、あまりにラジカルなことを言う政党・候補者でさえなければ、正直何でもいい。自分一人の票で政治が変わるとかいった誇大妄想は持っていないし、一票の価値・重みなんてものは、ほとんど意識したことはない。「清き一票」のために裁判まで起こして活動している人たちは本当にご苦労なことだと思うが、彼らを支持するほどのエネルギーは持ちあわせていない。投票には行くが、政治に対して真に熱心だとかいう訳ではないのである。また公的な職業だから投票に行くという訳でも全くない。大学時代でも棄権したことはなかった。


じゃあ何で投票に行くのか。その理由は、自分が「持っている投票権も行使しないやつに、政治について語る権利はないのではないか」という考えを持っていることにある。世間では、よく国や地方の政治についてあれこれダメだしがされる。自分はほとんど関知しないことだが、ネット上でもきっと喧々囂々たる議論や批判が飛び交っていることだろう。自分たちの国や社会を形作るのに最も大きな影響力を持つのは、政治である。だから、多くの人がそれに関心を持ち、自分の意見を持つことは、民主主義社会の本来あるべき姿を体現していると言えるだろう。自分も、今の政治に対しては、一家言を持っているつもりだ。しかし、それを口に出すためには、最低限の義務として、所与の投票権を行使し「参政する姿勢」を見せることが必要だと思っている。それが、上記の行為の根拠である。


ただ国民の政治批判は、実行力や決断力のない議員を選んでしまった自分たちの無能さを自ら指弾するに等しいことであり、ある意味で皮肉で矛盾した行為だと言うことも出来る。政治批判をし、責任論を声高に口にしている限り、議論は永遠に堂々巡りを繰り返すだけだ。政治というのはかくも非建設的で不毛なものなのだろうかと、政治自体ではなく、政治批判を見ていて強く感じさせられる。自分自身とて、あれが悪い、これが悪いということばかり言っている以上、政治の空虚化の一端を担いでいることの誹りは免れない。あるべき政治とは何か、「正しい政治批判」とはいかなるものであるのか、投票に行くたびに、つくづく考えさせられる。

(20分+15分:3/5〜6)