原議書

自分はいわゆる「報・連・相」というやつが苦手だ。面倒だし、いちいち上司からあれこれ言われるのが好きではない。出来るものなら、自分の分掌業務は自分一人で決めてやりたいと思っている。だが、組織で働いている以上、また業務の遂行の際に予算を使う以上、独断で行うことは出来ないし、何か問題が起きたとき責任を負うのは自分ではなく上司なので、常日頃から自分の業務状況について上司が把握しておくのは欠くべからざることだと思って、「これ、別に話さなくてもいいんじゃないか?」と思うようなことであっても、念のため伝えるようにしている。そこには「余分は不足に勝る」という行動原理が働いている。この行動原理は、自分の仕事上の多くの場面で顔を出す。例えば資料を印刷するとき、挨拶するとき、書類をファイルに綴るときなどである。余分なものを削るのは簡単だし、余っても大して困らないが、不足を後で補うのは大変な手間を要するし問題を起こしかねないという考えである。ただし、職場の人との会話はこの原則には従っていない。


学内外に対して何か行動を起こす際には、必ず原議書を起案し上司に伺いを立てて、決裁を得なければならない。これが自分には非常にわずらわしい。原議書は、何をするか、どうやってするか、それを行うとどういうことになるかといったことを明らかにする書類である。自分が思うに、原議書においては、①網羅的であること、②論理的であること、③合理的であることという三点をおさえていることが重要である。これを満たす原議書を作るのは、非常に骨が折れる。やろうとしていること自体は単純でも、それを紙の上で説明しようとすると意外にも難しいのである。それで「果たしてどうやって起案すればよいものか」と腕組みしてしまうことが少なくない。去年別の人が作ったものを見て、そっくりそのまま日付だけ変えて起案出来れば、これほど簡単なことはない。また定期的に行う案件で、自分が今年度すでに何回かやったことのあることであれば、困難の度合いはそれほど大きくない。しかし、去年の原議書は内容が薄すぎて、そのままでは今の神経質で注文の多い上司のハンコを得ることはとても不可能なので、それを大幅に充実させるか内容を抜本的に見直さなければならない。これに時間がかかるのが、近頃の残業の一因でもある。虚しいものだ。考えに考えて作った原議書でも、上司に出してみると、結局修正を指示する鉛筆書きがたっぷり書かれて返されることが多いので、逆にあまり詰め過ぎないほうが賢明かもしれない。近頃は上司の思考パターンがだんだん読め(予測でき)るようになってきつつあるが、依然として一発で上司をパス出来る域には程遠いのが現実である。スムーズに決裁を得て、スマートに仕事が出来るようになりたいとつくづく思うが、そのためにはまず上司の思考回路を予測する能力をもっと高めないといけないだろう。全く、おかしな話だ。

(30分)