残すことの重み

やっぱり大事だと思う。記録をするということは。記憶、特に思考や感情は、あっという間に風化して、どこかへ消えてしまうものだから。


最近仕事をしていてよく思うのは、「いつからこの職場に、仕事に、生活に、順応したんだろう」ということだ。徐々に慣れてきたに違いないが、初期段階では一体何を感じていたのか。出勤するとき、帰宅するときの車内でどんな気持ちでいたのか。職場の人とどんな会話のやりとりをしていたのか。そういったことが気になる。それは今の自分が、すっかり当たり前のように、出勤して、仕事をして、帰って、風呂に入って寝るという生活を送ってしまっている、一日一日を定型化、ルーチン化してしまっていることへの、ある種の驚きから生じたものだ。まだ2ヵ月半なのに、もう2年半くらいこの仕事をしている気がする。何でこんなにも、慣れきったかのように過ごしているのだろうと、それまで過程が気になるのである。ただ、ありとあらゆるものに多感で、新鮮な感情を持っていた働き始めの頃ほど、慌しく、疲れやすくて、記録を残さなかった。現在でもブログ以外の記録はほとんどつけていない。つまり、当時のありのままの感情というのは、もうほとんど残っていないということだ。これは残念なことである。何をやったか、という記憶は中々消えないし、何かしらの形状で(写真、他人の記憶など)、その結果や痕跡は残るものだ。しかし感情は残らない。残っているつもりでいても、それは時と共に、意図せずとも不可逆的に改変されていってしまう。往々にして美化され、理想化される。そんな風に過去が陳腐化するのが嫌だから、自分は記録することにこだわってきた。だが、過去の例を見ると、残しておきたい重要な出来事であるほど、再現性のない貴重な経験であるほど、逆に記録は残されない傾向が顕著となっている。これは、「書きたいことは山ほどあるから、後でしっかり、思う存分書こう」と思って後回しにした結果、とうとう何も書き残すことのないまま記憶が失われるということを繰り返してきたためである。これがせめて、誰かと同じ出来事についての記憶を共有し、語り合うことによってその記憶の補強と修復を図るような機会があれば、まだ比較的良好な状態で過去を保管することも出来るのかもしれない。だが、あいにく自分は人付き合いがかなり少ないので、そういう機会もない。自分の歩んできた足跡は、高校卒業以前となるともうすっかり薄くなってしまって、目を凝らしてもよく見えないレベルである。今ボケても、自分の古きよき時代の思い出話を延々と繰り返すことが果たして出来るかどうか、怪しいくらいである。


記録を残すことに執着しているからといって、自分は別に前を見ず過去に執着しているわけではない。現在の自分を肯定し、今よりも前に進もうと思うなら、その前提として、自分の過去を肯定していく必要がある。失敗も、挫折も、愚行も、全てが今の自分の形成に不可欠で、かけがえのないものだった。そしてそれはこれからの自分にもつながっていく。そうして過去を見つめ、自分への理解を深めることは、自分が何者であるかをはっきりさせ、これから進むべき道を、明日を見据えることに役立つはずである。何より、過去を振り返って、それぞれの時代を証明するものが何も残っていなかったなんてのは、寂しいではないか。だから、自分は記録をする。自分のために、自分の未来のために。


何だかもう感受性を失っているようについ思ってしまうが、慣れきったかのように思える現在も、依然として変化への順応の過程段階である。来週には県内の4機関合同での新採用者研修がようやく行われるし、秋以降は来年度の業務の企画もしなければならない。何より入試の時期になれば、今は微塵も意識せず気配も感じない大学入試に、試験監督などで否が応にも関わらなければならなくなる。それらは全く新しい経験だ。業務のことは粗方知ったような気でいるが、まだまだ自分は何も知らないのである。ならばせめて今からでも、一行でも、一文字でもいいから、何かを書き残していくべきではないだろうか。書かずに後悔することはあっても、書いて後悔することは決してないのだから。

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