FB2006/11:自分とバドミントン(後編)

2006/11/6(月)


中学入学後、自分はバドミントンを続けるか否かで迷った。生徒は全員何らかの部活動をしなければならなかった。中学には元々バドミントン部はなかったのだが、スポ少のバドクラブのコーチ陣が学校に頼みこんで、その年新たに開設することになっていたのだ。体験入部してみて何となく野球部もいいかなと感じてもいた。部活は野球でスポ少はバド、もしくはどっちもバド、あるいは部活の野球だけにするか・・・。スポ少の力でバド部が出来たため、部活だけバドというわけにはいかない。一方で文化部はというと、女子ばかりで男子にはつらそうだったからその選択肢はなかった。そうして自分が野球に何となく傾いていたとき、母親の言葉がきっかけでバド部に入ることにした。その言葉は「3月に新しいラケットを買ってもらったばっかりでしょ?野球部に入ったらもったいないじゃない。新しくお金もかかるし」といった感じのもの。結局お金の話に過ぎなかったのだが、それで丸め込まれてしまった自分はバド部に入ることに決めたのだった。


部に入ってみると、入部者はほとんどスポ少から続けてきた人たちだった。小6のとき町のスポ少のバドクラブに入っていた同級生は自分を含め男子6人、女子6人だったが、その内男女4人ずつが入った形となったのだった。小さな町だったから中学は一つしかなくて、他の小学校出身の人たちもみんな同じ中学に集まっていた。そこに初心者の女子が新たに一人加わり、新設のバド部は合計9人という少し中途半端な人数でスタートしたのだった。与えられたのは6コートを張れる体育館の隅の1コートのみ。卓球部の使っていたスペースを割いて使う形だったため、最初は卓球部から少し疎ましがられていたし、コート内にピンポン球が転がってくることも多かった。


自分が中学でもバドを続けることは、スポ少で一緒にやってきたメンバーにとっても意外なことだったようだ。4月の初めにスポ少の練習に行ったときのことだ。練習場である地元高校の体育館に入ろうとしていたとき、自分は館内から聞こえてきた言葉に思わず立ち止まった。同級生の一人が自分の名を挙げて言ったのだ。「あいつはさすがに続けないよね」と。大会に出ても全然勝てないほど弱い自分が今後も続けることはないだろうと思ったのだろう。どういう流れでそんな話になったのか、またその後どんな会話が続いたか、そう発した彼らに自分がどんな対応をしたか、そんなことは忘れてしまった。でもその言葉だけは、自分の中に深く突き刺さって傷を残したのだった。


スポ少をやっていてバド部に入らなかった人たちは、中1の7月頃を最後にやがて来なくなった。それにつれて、スポ少の練習は部活の延長という傾向が強くなり、練習はどんどんハードになっていった。具体的な内容はあまり覚えていないのだが、自分がどんどん周 りから取り残されていくのをいつも感じていた。自分の力はあまり伸びないのに対して、他の人たちは日増しに強くなっていたのだ。練習で打ち合いをしていてもこちらばかりミスをするので申し訳なくて仕方がなかった。段々周りも自分のことを白い目で見るようになっていき、それもまたつらかった。


結局のところ、自分は実力が全てのスポーツの世界の厳しさを思い知らされつつも、3年の7月末までバド部を続けた。部活を変えることは高校に送られる内申書において大きなマイナスになるという噂があったので、変えることなんて考えられなかったし、そもそも変えても行く当てがなかった。他の部員はほとんど県の強化選手に選ばれ、独自の合宿などにもしばしば参加していたようだったが、自分は周りの部員がそうしたものに参加することすら知らされていなかった。考えてみると環境が不遇だった。周りの人たちが強すぎたのだ。仕舞いには小学生のときからからスポ少を続けていた後輩にも完全に追い抜かれ、大会の団体戦では自分を差し置いて後輩のほうが選抜されていた。当然と言えば至極当然のことだったので、悔しさよりあきらめの感情のほうが大きかったと思う。部の練習試合や合宿には一応参加していたが自分は空気みたいな存在だった。ダブルスを組むときはいつも1年下の後輩とで、試合に負けると彼に「お前のせいだ」となじられることもあった。最終的に自分が引退したのは3日間に渡る県大会の最終日のこと。団体戦の補欠に人数合わせで参加して、全く戦わずに県の2位に入賞した。だが、その上の大会では補欠の数が一人少なくなる関係で補欠から外された。合宿2日目の夜、顧問の先生から呼び出され、「来年がある後輩の経験のために、申し訳ないが外れて欲しい」というようなことを言われて涙を呑んだ。そこで自分とバドミントンとの縁はすっぱりと切れたのだった。先生には上位の大会に応援に行くかとも聞かれたが、それはつらいからと断った。その後の大会でどんな結果になったかは全く知らない。


バドミントンに関わった4年半は、肉体的・精神的に色々と大変だったのだが、今思えば豊富な体験、様々な経験をしたものだ。大会や練習試合、合宿等で、県内各地、果ては海を越えて県内の島にまで行った。たくさんの体育館に足を踏み入れたし、学校のお金で旅館やビジネスホテルに泊めてもらいもした。高校生と戦ったこともあったし、社会人の人とも時には勝負した。楽しいことや、つらいこと、悲しいこと、色んなことがあって精神的にも強くなれたと思う。少なくとも打たれ強くはなった。バドをやった仲間には時に厳しく突き放されたこともあったが、一方で楽しい思い出だって多く残っている。だから今ではあきらめないで続けてよかったと思っている。練習はつらかったが、バド自体はずっと好きだった。 そうだ、あの日々を思えば、今の状況なんて・・・。


(原典:初代ブログ)


*フラッシュバック 第8回*

うんうん、あったよね、確かにあった、こんなことが・・・そんなふうに、ひたすらうなずきながら、しみじみとした気分で読み耽ってしまった。長い間封じられていたタイムカプセルを開けたかのような、といえばよいのだろうか。すっかり忘れていた記憶が、まるでタイムスリップでもしたかのように蘇ってきたのだった。大学1年の当時に、小中時代の過去について書き残したのは、本当に賢明な行動だったと思う。なぜなら、今ではもはや、自力で当時のことを思い出すのは困難だからだ。上の文章にもあるように、バド部時代の思い出はいいことばかりではなかった。むしろ、つらいことが日常的だった。それゆえ、自分の記憶のタンスの奥深くに仕舞いこまれ、年月の経過の中ですっかりその存在が忘れ去られていたのだ。しかし、こうしたあまり思い出したくない過去にこそ、自分という人間を形作った重要な要因が隠されているものだ。運動部に属し、実力が絶対のスポーツの世界の厳しさを前に「挫折」を経験したことによって、自分はこれから進んでいく「社会」の姿を想像することが出来たし、よくも悪くも自分の「身の程」というものを認識して現実的に判断や行動をするようになった。小中時代のバド経験なくして、今の自分の成り立ちを語ることなど出来ない。自己というのは、生まれてから現在までの様々な経験の積み重ねによって、ゆるやかに変化しながら形成されたものであり、一時点だけを見て過去からの連続性を考慮しなければ、本質を見誤ることになる。つまり、自分自身の過去を忘れてしまうことは、自分のアイデンティティを失うことに等しいのである。そうした意味から、過去に自分が書いた文章から、自分の過去を「取り戻した」のには非常に大きな価値があった。一つの出来事を思い出したのを鍵に、関連する色んなことが蘇ってくるという効果もある。嫌なことも、大事なことさえも、とにかく忘れっぽい自分にとって、書くという行為、とりわけ感情や他者の言動を書くことは、極めて重要であるということをつくづく思い知ったのだった。


小さい頃は、自分が大人になることなんて全く想像がつかなかった。子どもと大人の境目というのはどこにあるのだろう、大人たちは自分自身も昔は子どもだったのに、どうして子どもを疎ましがったり、子どもの考えを理解しなかったりするのだろう、そんなことをよく考えていた。どんな些細なことにも、「これって何、なぜ、どうして」と疑問を感じ、大人に質問をするやっかいな子どもだったことを覚えている。そうした知的好奇心は今の自分にも受け継がれているはずだし、根本的な性質の多くは昔から変わっていないと思う。ただ、過去が思い出せないがために、その連続性を確認できないのだ。「自分は昔からこういう人間だった」と確信を持って言うことが出来ない。だから、自分に自信が持てないのだ。積極的にこういう過去を掘り起こして、自己理解を深めていく必要がある。それと同時に、将来の自分の助けとなるように、今を書き残すこともまた重要である。そのためにブログを役立てていかなければならないと思う。毎日ブログを書く、とりわけすぐに忘れてしまうような何でもないことを書く、それが実はとても大切なことなのである。

(120分)