責任の所在

大学という組織の特殊性というのは、その存在において誰に対して責任を負っているのか、ステークホルダーが誰なのかという部分が、いまいちはっきりしないところにあると思う。企業ならば顧客と株主、市役所なら市民、医者なら患者というように、利害関係がはっきりしているが、大学においては明確なそれがない。学生は客といえば客ではあるが基本的に身分と自由を提供するだけでしかないし、教授陣は運営する側だし、地域社会や企業との関わりはごく限定的だ。国立大は国から運営交付金をもらっているが、だからといって国に指図されて動いているわけではもはやない。では誰に責任を負い、何のために存在しているのか。


自分が思うに、それは「人々の未来に対して」であり、「未来をよりよいものとしていくため」ではないだろうか。現代社会に限定した話ではなく、いつの時代も世の中というのは目まぐるしく変化し、浮き沈みの激しいものである。企業も、行政も、どうしても目先の現実的な事象に囚われて思考と行動を誓約されてしまいがちだ。そんな中で、長期的な展望を持ち、来るべき未来のために行動していける、世の激流から半歩引いた存在が、大学なのではないだろうか。そして、未来につながる研究をし、未来を担う人材を育てることが大学の存在意義であり、使命なのではなかろうか。ただしそうした目的を達するためには、実社会から乖離しなよう社会の変化の行く先を見据える確かな目、一般市民の現実的な
感覚というのが必要でもある。どのような未来を描くのか、ということに繋がっていると思えば、自分の仕事にも意義を見出せるというものだ。大学職員というのは、大学全体を車に例えたら、エアコンのフィルターだったり、シートの背もたれの角度を調整するレバーだったり、ワイパーのゴムだったりする。要するに表からは目立たず注目もされない脇役であり、車を動かすというより、車の動きを助けるようなことが仕事である。それだけに、「一体自分の仕事って何なんだろう。社会にとって何の役に立っているんだろう」という疑問と不安をどうしても感じてしまう。就職の面接を受けるときでさえも、志望動機を書くのには散々苦労したものだった。だから、大学の意義を考え、自分がそれをどこかで支えているのだと思うことには大きな意味がある。こういう問題に対して、今後も積極的に考えることををして行きたいと思っている。


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