葬式

数日前に85歳で亡くなった隣家のじいちゃんのお葬式に参列するため、今日の午前は家族とともに葬儀場へ行ってきた。本当は昨夜のお通夜に出ようと思っていたが、時間が合わず出られなかったので、お葬式に出ることにしたのだった。とはいっても、2000年に亡くなった叔父の葬儀以来、身内の不幸がなく、今回13年ぶりにお葬式に出ることになったものだから、いい年をした大人のくせに、自分は右も左も分からない有り様だった。とりあえず就職した時に買ってあった礼服と黒いネクタイを身につけ、家の仏壇にあった数珠を1つ持参し、あとは周りの様子を伺ってそれに合わせる戦法で臨むことにした。社会人になって丸3年も経つというのに、お葬式はおろかお通夜にさえ行ったことがなかったのは、我ながら驚くべきことだ。職場でも同僚の不幸がなかった訳ではなかったが、お香典を人に預けるに留め、自ら参列することは避けてきたのだった。「直接会ったことのない人の葬儀に出ても意味がないから」という理由は一見もっともらしいが、本音としては「作法がよく分からないから」という点にあった。いささか未熟に過ぎたかもしれない。そういえば自分は友人や同僚の結婚式というものに出た(呼ばれた)ことも一度もない。長男でいずれは家を継ぐ立場にあるというのに、親類縁者の関係もよく分かっていない。そのため自分は冠婚葬祭の礼儀作法や、親類付き合いにはとことん弱い。これらに関しては、非常識とさえ言っていいほどに苦手分野である。


会場に着くと、隣家の一族の人や近所の家のお年寄りが大勢集まっていた。知った顔は見当たらない。その上、葬儀場なんて初めて来たものだから(子どものころに出たお葬式はいずれも自宅葬だった)、どうにも居場所がなく落ち着かない。待合室を避けて葬儀を行うホールの席に座り、開始時間までじっと待ち続けた。ご焼香はどうすればいいのかということを心配しているうちに10時になり、葬儀は予定通り始まった。まずは、読経だ。3人のお坊さんが南無阿弥陀仏とお経を唱え、参列者も時折数珠を持って合掌した。そのタイミングは周りに合わせた。読経の途中から、焼香が始まった。最初に遺族が抹香をあげ、それに続いて参列者も順番に祭壇前に進み出た。何人かの様子を観察してみたところ、遺族に一礼→遺影(棺)に合掌→焼香2回→再度遺影(棺)に合掌というパターンが多かった(これに加えて、前後で参列者側に一礼する人、最後に再度遺族に一礼する人もいた)ので、自分もそれにならった。だがこの時は、緊張して型に合わせることにばかり集中してしまい、合掌の時に故人の冥福を祈るのを忘れてしまった。お葬式の形式なんて重要じゃない、故人に対して真摯な気持ちを表し、悲しさではなく感謝の気持ちで「お別れ」のけじめをつけることこそが大事なんだ・・・という信念とは裏腹に、いざその場に立つと、表面的なことに気を取られて本質を見失っている自分がいた。全く情けない限りだ。行動を伴っていない、頭でっかちだと言われるのには、こういう部分に原因がある。これでは葬式の形骸化だ葬式仏教だなどと批判出来る立場にはない。これじゃいけない、とその場で反省した。次に喪主から挨拶があり、それから棺のふたが外され、故人への献花になった。一般参加者も献花してよいということだったので、自分も前に出て花を受け取った。今度は形を気にせず気持ちを込めようと思い、小さいころの記憶を掘り返してみた。そういえば、保育園への送迎で車に乗せてもらったことが時々あったし、自宅を建て替える時に工事の一部を手伝ってもらったことがあった。思い起こしてみれば、自分は隣家のじいちゃんにずい分お世話になったんだな・・・そう気付いて、感謝の言葉が心に浮かび、故人の顔を見ながらその思いをそっと伝えた。もう長いこと姿を見たことがなかったので、入院の末にやせ細ったその顔は自分の記憶の中のイメージとはずい分違っていた。死を迎えた人の顔を、恐怖の感情なしに穏やかに見つめたのは、これが初めてだったように思う。子どものころは、「死」は自分にとってタブーであり、恐ろしいものだったからだ。年を取るとだんだん鈍感になり、自分の将来への期待値の低下と同時に死への恐怖も薄らいでくるものだ。献花が終わると、参列者全員で建物の玄関ホールに向かい、棺が火葬場に向かうのを見送った。自分は火葬場へ行くバスには乗りこまず、そこで帰ることにした。葬儀は実質約1時間と短かったが、色々なことを考えさせられ、学ぶことになり、得たものはとても多かった。


お葬式に出て、今後の課題として考えたことは2つ。一つは、上述のとおり「形式より気持ちを重んじることが大事」ということ。自分が大事な人を失った時に、前向きな気持ちでその現実を受け止め、(ありきたりな定型文を読み上げるのではなく)心をこめて自分の言葉で感謝の思いを伝えたいなと思った。もう一つは反対に、自分が死んだときの葬式の方法についてきちんと自分の考えを整理して明文化しておく必要があるということ。「通夜でアニソンカラオケ大会をする」、「黒服禁止、カジュアル服参加でOK」、「香典返しはクレーンゲームの景品」、「参列者にメッセージカードを書いてもらって棺に入れる」、「出棺時のBGMはDQ3のエンディング曲の『そして伝説へ』のオーケストラCDを流す」などずい分ふざけたものも含めて色々とアイデアはあるが、自分のやりたいことを押し通して、それを実際に行なう家族が困るようではそれもまた良くない。特に田舎では、こういう型破りなことをするのはとにかくハードルが高い。それに葬式をする目的は故人のためというより、残された人のためにあるということを忘れると、故人の単なる自己満足に終わってしまうことになるし、失敗した場合に文字通り取り返しのつかない後悔を残すことになる。また、上記のような葬式にするためには、死因が事件・事故によるものではないことが絶対条件となる。何らかの事故や災害に巻き込まれて、突然に凄惨な最後を不本意ながら迎えてしまった場合は、とてもじゃないが冗談染みた葬式など出来ようはずがない。立つ鳥跡を濁さず、終わりよければすべてよし。よくよく考えてプランを練っておきたいものだ。

(145分)