旧弊

大学の事務っていうのは、かなり行政組織っぽい仕組みで動いている。誤解を恐れずにいえば、いわゆる「お役所」的なところが、法人化されて6年半たった今でも、結構感じられる。法人化前は完全に国の機関だったから、もっとお役所だったに違いない。といっても、自分は役場や市役所、県庁みたいなバリバリの役所(っていういい方はかなりヘンか)の仕事の実態はほとんど見たことはないし、逆に民間企業がそうした役所と比べてどれほどやり方が違うのかということも知らない。だから、厳密にいえば、本来、今の大学組織のことしか知らない自分が、それを指して役所的であると評価するのは、客観的に見て妥当性に乏しい。だが、世間一般の人が想像する「お役所」(実際の役所と一致するかどうかは重要でなく、その必要性もなく、むしろそれと乖離するほどもてはやされる存在)には近いといえるのではないだろうか。


具体的には、
①何かの行為が発生するときは、その都度上司(課長・部長・局長・学長など)の決裁を取る
②意思決定・承認の過程は紙とハンコで残す
③予算はきっちり使い切る
④タイムカードがなく、出勤時刻・退勤時刻は管理されていない(出勤した際に出勤簿に押印するだけ)
なんてのが、とりあえず思いつく事柄だ。


①は原議書という書類を作って、「○○してよろしいか伺います」という形で上司の許可を仰ぐことで、この行為を起案という。起案した書類に対して上司から承認を意味するハンコを押してもらうことを決裁といい、課長の次は部長、部長の次は局長というように次々と上の人にハンコをもらって、必要なハンコがすべて揃って初めて、伺いを立てた行為を自分がやっていいことになる。起案した書類はまず直属の上司が見て、部署内の人が全て見たあと、課長のところに行く。その先は、自分は関与せず誰かの手によって書類が回され、あちこちを経由して決裁権者(学長以外の人が終点の場合にはその人のことを「専決権者」という)から書類が返ってくるのは、何日かしてからということになる。つまり、何か外部に書類を発信しようとしても、そこに学長名を使ったりする場合には、すぐには書類は出せないということだ。普通の企業だって、きっと勝手に社長名の文書は出せないだろうから、こうした「スタンプラリー」に近いことをやっているのかもしれない。ただこれだとどうしてもスピーディーさに欠けるから、急ぎの時には困ってしまう。そういう場合は、自分で書類を持って、上の人たちの席まで行って、ハンコをもらって回ることになる。これは、「持ち回り」と呼ばれる行為である。役所では、決裁を電子化するシステムが導入されているところもあると聞く。うちの大学のような小さな組織ではほとんど効率化のメリットはなさそうだし、お金をかけてそんなシステムを入れるなら、専決を増やして決裁を簡便化するほうがよっぽど利に適っていると思うが、どんなものなのかは少し気になるところだ。とはいえ、当然ながら、こうしたやり方には煩わしさも感じる。自分の責任で、もうちょっと自由にあれこれできればいいのにとも思う。だが、こうした決裁のやり方は、もともとは公権力が職員個人の判断で勝手に行使されるのを防ぐための仕組みだろうし、多くの目を通すことで、ミスや不正を起こさないようにするという効果もあるだろう。いい点は残しつつも、より合理的で効率的な仕組みにできないか検討することはあってしかるべきだと思う。これでも法人化後はかなりハンコを減らしたらしいんだけど、じゃあその前はどうだったの?と考えてみるとちょっとうんざりしてしまう。


②は、①とやや重複する感じだが、要するに原議書に、これまでのいきさつやこれから行おうとすることを全部書いて、情報を上の人にきちんと挙げ、同時にその行為についての記録を全て紙に残しておくということだ。自分では全て分かりきっていることを、初めて読む人にも事情が分かるように一から書いておかなくてはならないので、なかなか面倒で大変なことだったりする。定型的で定期的なことであればさして問題はないが、初めて対処する事例だったりすると、どういう形で原議書を作ればいいのか悩むこともある。自分で考えていきなり起案すると、たいてい直属の上司に修正を指摘され作り直すことになるので、まず原案を作って、上司に不備や修正点がないかどうか判断を仰いでから、起案することが多い。異動した際に他の人の仕事を引き継ぐときは、まず原議書や関係書類のつづられたファイルを読んで仕事の概要を勉強するものなので、あとで読んだ人に分かりやすいようにするというのは大切なことだ。特に、(少なくとも自分の担当する業務には)きちんと整備された業務マニュアルなんてなく、全学的に統一されたマニュアルの作成基準とか様式なんてのもない環境にあっては、ファイルに経緯が分かりやすい形で書類が整っていることは重要な意味を持つ。職員個人としてではなく、大学組織として外部に何か行為をする際には、ハンコによって誰がそれを承認したかという意思決定の過程を明確にしておくことは、必要なことである。ただ、体内的なこと(お金に関することは除く)に対しても課長や部長からハンコをもらわないといけない風潮があるのは、ちょっと煩わしさを感じないでもない。それに、何でも伺いを立てて記録を残すということは、紙を大量に消費するということなので、それはそれで問題を孕んでいることでもある。部屋の一角にうずたかく積み上げられた片面印刷済みのミスプリント紙(反故紙)の山は、高くなることはあっても、低くなることはない。


③は、役所の最大の悪習みたいによくいわれることだが、これは大学にも当てはまることである。今は財務課から今年度予算の執行状況についての照会が行われているが、これが来年度の予算を組む際のベースとなる。その際、予算が余っていれば、今年度分を没収されると同時に、来年度の予算に縮小圧力がかかることになる。そうなると何かと困る。だから、予算を減らされないために、慣習として「使い切る」ことが行われているのである。単年度予算主義の最大の弊害であるし、予算の消化のために紙を買ったとかパソコンを買ったとかいう話を聞くたび、バカらしく不経済なことだと思う。税金を浪費する行いであり、多分に問題がある。ただ、節約するインセンティブが働いていないという制度上の問題もある。業務の効率化によって余った予算を積立金として次年度以降に回すことも出来るようだが、これは大学として戦略的にプロジェクトを実施したりするのに使うために認められているもので、日常的な消耗品等には使えないし、第一積み立てることが国に認められないと国庫返納となってしまう。頑張って予算の使用額を減らしたとしても、何か評価されるわけではなく、大学としてのメリットもない。大学は公債を発行して自分で資金調達することは出来ない(と思う)し、最大の収入である国の運営費交付金は現状では減る一方なので、基本的に予算が増えることもない。余ったとなれば、交付金が減らされて、大学はもっとじり貧になる。会計年度を5年単位にするとか、予算の使用にもっと柔軟性を持たせるとかしないと、この「使い切る」という風習はなくなりそうにない。国は憲法で単年度予算主義を規定されているけど、法人化された大学は必ずしもその縛りを受ける必要はないのだろうし、そのうち複数年度予算主義が導入されることに期待したい。・・・とかなんとか書いたけど、自分は予算の実務についてはとんと素人なので、いずれ財務課に異動してそこんところをきちんと勉強しておきたいと思っている。行くなら20代のうちでないといけない。あまり歳して行くと、財務から出られなくなってしまうらしいから。


④については、「そのまま」としか言いようがない。記録上は、出勤・退勤時刻は全く管理されていない。これを指して、世間的には「遅刻してきても証拠が残らないからおかしい」と言われているようだが、実際は少なくとも大学の事務職員には連絡もなく遅刻して出勤して来る人はまずいない(教員は自由業に近いからどうだか分からないが)。ただ、始業時刻間際に来る人は多く、自分のように30分前から来ている人間は少数派だ(当然といえば当然か)。このタイムカードがないというのは、職員に有利に使われているかというと、むしろその逆で、実際にはサービス残業の横行を招いている。労使協定で一日に出る残業代は4時間まで、月では40時間まで、年間では360時間(だったかな?)までと決まっているが、実際にはそもそも残業代を申請していない人が少なくない。この範囲内であれば、断る事由はないから、出せば認められるだろうが、その前に出されないのである(うちの部署が異常なだけだろうか?)。これについては色々な事情があるだろうし、多面的な考察が必要であると思うのだが、かなり深い問題なので、今回はこれ以上は書かないことにする。


もうあまり書く気力がないので、これくらいにしておく。人の話を聞く限り、大学組織も法人化以降変わるところは変わってきているので、お役所指数がこれから下がっていくことも十分考えられる。というか、下がらないと対応できなくなってくる場面も、これからきっとあるに違いない。ただ、組織を構成しているのはあくまで人である。いくら法人化したといっても、中で働いている人の大半は法人化以前からそのままなのだから、急に変わることはそもそもありえない。本当に変わるのは、時間の流れとともに人が入れ替わり、組織が新陳代謝したときだろう。

(180分+30分:11/4 2:05、23:37)