夏祭り

昨日今日と2日間、自分の集落の夏祭りが行われた。毎年恒例の行事なのだが、今年は5年に一度の神輿が出る年で、かつ10年に一度の花火を打ち上げる年でもあったので、例年と比べてかなり盛大に行われていた。


昨日の昼には集落の小学生たちが神輿を担いで、元気な掛け声を挙げながら集落内を練り歩いていた。自分も担いだことがあったが、それはかれこれ15年も前の話である。そんなに経つなんて、どうりで老けるわけだ。夜には、花火が打ち上げられた。50戸以上100戸未満の中規模な集落にもかかわらず、1分おきに一回位の割合で1時間近くも打ち上げ花火が続いたというのは、本当にすごいことだと思う。そりゃあ長岡や直江津の花火の比べたらはるかに小規模ではあるが、家の窓から間近で見ていると迫力は十分だし、混雑や騒がしさとは無関係に自分の家で花火を楽しめるというのは、大規模花火を見に出掛けるよりも、むしろよっぽど贅沢なことなのではないかと思う。各家や企業からお金を募って集めるのはきっと大変だったろうが、現にこうして実現している背景には、イベントを熱心に企画し実行してくれた人たちがいたということだ。あいにくの雨にもかかわらず、見事に夜闇の中に咲き開く花火を見て、そんな彼らに頭が下がる思いだった。自分は中学卒業以来、集落の行事や交流の機会にも一切参加してこなかったし、夏祭りにも久しく出掛けていなかったが、今後はおいおい参画していくこととしよう。家族を挟まないでご近所と付き合うのは正直言って苦手なのだが、実家に住んでいる以上、この狭い集落の中で家に引きこもって身を隠しているわけにもいくまい。思い切って顔を出してみれば、案外どうにかなるものだろう。今後の最重要課題の一つとして検討していきたい。






↑家の窓の2階から撮ったもの。木や電線が邪魔になっていてうまく全体が撮れなかった。花火はシャッタースピードを遅くしないと撮れないのでブレやすく、タイミングも難しい。今回は出窓にカメラを置いて手で固定し、連写して撮影した。


今日は祭り2日目で、最終日なので、ちょっとくらい見ておこうかと思って、夜に祭り会場の公園に行ってみた。神輿とセットで5年おきに登場するやぐらを中心に、集落の壮年会(だったと思う)の人たちによる、焼き鳥、焼きそば、フランクフルト(それぞれ1つ(焼き鳥は2本で)100円という安さ!)などの露店が出ており、あちこちに提灯がぶら下げられていて、いかにも祭りという雰囲気が醸し出されていた。そして、「こんなに人がいたのか」と驚くくらい、狭い公園の中に多くの人が集まっていた。田舎だから過疎化の一途をたどっているものかと思っていたが、案外そうでもないかもしれないと思って、集落の前途に少しだけ希望を感じた。フジファブリックの「若者のすべて」という曲を頭に浮かべてたたずんでいたら、近くの椅子に腰かけていた人から声をかけられた。あれ?誰だろうと思いつつ、話を合わせていたら、その人の隣に座っていた隣家のお母さんに目が留まって、「ああそうか」と気づいた。隣家の同級生の女子だった。メガネをかけていたのと、前より体格が細くなっていたせいで、すぐに気付けなかったのだ。そもそも隣家とはいえ、庭を挟んで離れていることもあり、直接姿を見ることは久しくなかった。だから、姿のイメージが中学くらいから更新されないまま止まっていた。これでは気づけるはずはなかった。だが、向こうにとっては、自分はたぶんそんなに変わったようには見えていないのだろう。男は化粧はしないし、髪型や雰囲気も自分はずっと同じような感じで来ているから。頭の中身もそんなに進歩してはいないし、自分のことを覚えている人にとっては、すごく「見分けやすい」のではないかと自分自身でも思う。元気そうで何よりだったが、しかし、思いがけず昔の同級生に会うと、何を話していいのやら分からないで戸惑ってしまうのが自分の弱点だ。せっかく声をかけてもらったものの、結局その一言しか言葉を交わさなかった。別に相手が相手だし、ご機嫌をとれるように積極的に明るく振る舞ったりする必要はないと思うが、でもこれはちょっとコミュ力が低いんじゃないかと言わざるを得ない。こうして「咄嗟の雑談力は重要」という大きな教訓を得ることとなった。


ちなみに、お盆だからといって中学や高校の友人と集まって飲む、みたいな機会は全くない。去年まではたまにあったが、今年は全くない。単にみんな社会人になったから集まりがなくなったのか、自分にお声がかからなくなったのか、どっちにしろちょっとさびしい気がするな。

(80分)