たばこ税は喫煙の免罪符となりうるか

日本で市販されているたばこの販売価格に占める税金の割合は60%ほど。一般の商品の購入時にかかる消費税が5%なのに比べ、遥かに税率が高い。その税率の高さを笠に着て、「高い税金を払っているのにどこもかしこも禁煙化して冷遇するなんてけしからん」という喫煙者の言葉をときたま目にする。この主張には果たして筋が通っているのだろうか。ネットで検索してみても、真剣かつ多面的にこの主張に反論した文章はちょっと見当たらなかった。ならば根っからの嫌煙家である自分としては、何としてもそれが破綻していることを冷静かつ論理的に証明しなければならない。そこで少し考えてみた。


まず喫煙者はたばこを買うときに、何に対して対価を支払っているのかという論点がある。以下ではたばこの価格を300円、税額を180円と設定して話を進める。税金を払うために300円を支払っているのなら、「税金を払っているのだ」という自負をする理由も分かる。それなら買った瞬間にたばこを捨てても構わないはずであるが、そんな人は誰一人いない。自分のためにたばこを買った人は必ずそれを吸うのであり、それを吸うために、吸うという行為を実現することに対して、対価を支払っているのである。経済学的に言えば、たばこを吸うことにより得られる効用に300円以上の価値があると認めているから、税金を払ってでも120円分のたばこ本体を得るために300円を出してたばこを買うのであり、たばこ税180円分に効用を得てはいないと考えられる。購入時点で無視している180円から、後になって「高額納税者として優遇される」という効用を得ようとするのは、ナンセンスであるといえる。しかしこれでは、「120円分と180円分の両方から効用を得ることを期待して300円を支払っているのだ」という主張を受けた場合反論できない。


そこで次に支払った税金に見合う見返りを求めることが妥当なのか、余分に税金を払っているからといって優遇されるべきなのかという論点がある。これには税がなぜ徴収され、何のために使われるのかということが前提となる。憲法の30条に「国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負ふ」とあることから、納税は国民として当然なさねばならない義務となっている。寄付でもなければ、サービスを得るための代金でもない、有無を言わせず納めねばならないものなのだから、納税行為による見返りを求めることは間違っているる。そして税金が何のために使われるか、どういう機能を持つかということから、更にそれは裏付けられる。自分が考える税金の機能は3つある。第一に、国家という法によって社会のルールを守るために歴史上・国際関係上欠くべからざる機関を運営するための費用をまかなうことである。日本が日本という形を保つためにやむを得ず集めなければならない必要悪であるという消極的な側面だ。第二に、企業の営利活動によっては提供されない純粋な公共サービス(公共財)を提供するための費用をまかなうことである。公共財としては警察、国防、道路、上下水道、防災、ごみ回収といった例が挙げられる。これは社会福祉の向上に役立つという積極的な側面である。第三に、所得の再分配という機能である。所得が多く生活に余裕のある人からは多くの税金を取り、それを失業や障害、怪我などで十分な所得を得られない人に対して分配することによって、貧富の差を縮め国民の所得水準の公平化を図ること、これは結局は社会秩序の安定化にも繋がり社会全体にメリットをもたらす。それゆえ積極的な側面といえる。この第三の機能から考えれば、税金を払ってでも嗜好品(贅沢品)であるたばこを買う人というのは、それだけ所得にゆとりがあるということになり、再分配するための所得の源泉とされる。贅沢品を買う余分なお金があるのだから、自分以外の他者のために税金を充てられることのほうが自然だ。すなわち高額納税者ほど相対的に税金による直接的恩恵は小さくなり、優遇されないということである。そもそも所得税同様、たばこ税は使途を特に指定していない一般財源(普通税)であるのだから、その使途が喫煙者の方向を向いていないとしても何の不思議もない。社会における多数派である非喫煙者の意見が尊重されるのもまた、議会制民主主義においては当然のことである。要するに、高額納税者は確かに国家と社会の運営に貢献してはいるが、だからといって偉ぶる理由とはならず、むしろノブレス・オブリージュともいうべき他者のための社会的責任を追うことになると言える。


最後に税金を払えば受動喫煙などの迷惑をかけても許されるべきなのかという論点がある。非喫煙者を含む不特定多数の人がいる空間での喫煙行為は、環境問題と同様に考えることが出来る。経済学的に見て、この場合、市場を介さず、加害者(喫煙者)が一方的に他の被害者(非喫煙者)に対して不利益を与えるという外部不経済が生じている。コースの定理によれば、加害者が被害者に賠償金を支払うことで喫煙を認めてもらうか、被害者が加害者に補償金を支払うことによって喫煙をやめてもらうかのどちらかによって、外部不経済は解消され社会的厚生は最大化される。しかし、現実的には加害者・被害者の両方の感情からして、どちらの選択肢も実行されることはほとんどありえない。喫煙者はたばこを吸うことは至極当然の権利と考えているし、非喫煙者は迷惑を引き起こしている人にお金を払うだなんてとんでもないと考える。この場合コースの定理は非現実的だ。しかし外部性という考え方が重要であるのは疑いようがないことである。迷惑行為を容認するにしろやめさせるにしろ、市場経済に生きている以上、当事者間での市場を通じた解決という道筋が妥当であり合理的である。それに対して、たばこ税の納税という行為は何の関与もしていない。税は利害関係を伴う当事者間で取引されるものではなく、被害者の不利益の解消に直接的に何ら寄与しので、納税が(それが義務であることともあいまって)迷惑をかけることの免罪符とはなりえない。またたばこ税が社会福祉の向上に与える正の影響と、たばこの存在や喫煙が社会に与える負の影響を秤にかければ、後者の方が重いことは数々の研究によって明らかになっている。従って自由に喫煙を認めることは社会上の利益にも適わず間違っていることである。


以上の3つの論点からの考察で、冒頭に挙げた喫煙者の主張はことごとく論破できたものと思っている。3ヶ月ほど前からSが喫煙を止め、彼に配慮する必要がなくなったので、それ以来自分の中でも「たばこ反対」という姿勢は強化され、表裏なく明確なものとなった。これからも何があろうとこの断固とした態度を失うことなく、受動喫煙の完全な禁止のために、ゆくゆくはたばこ自体を「化石化」させるために、ネットの片隅で物申して行きたいと思う。

(150分)