取捨選択 通算その4

気がついたら「はやぶさの日」(6月13日)の日で、誰かに「今日は何の日か知ってる?」と尋ねてみようと思ったのに、仕事をしていたらそのことをすっかり忘れてその日を終えてしまった。次に気がついたら夏至が過ぎていて、せっかく日の出が早くなってきたのにこれからは短くなる一方だ、朝の時間をもっと活用しないと、と焦ったものの、日中のそれ以外の焦り要素が多すぎてすぐに頭の片隅に追いやられてしまった。そして気づけば今日から7月で、今年も下半期に突入することになり、時間が恐るべき早さで、というよりもはやその感覚を実感できないほど、人知を越えたスピードで、過ぎていることに嘆息せざるを得ない。

 

 

そんな日常だからこそ、思考・習慣・趣味等の取捨選択を進め、自分の頭の中や身の回りの物事をシンプルにしていくことは、非常に大切なことだ。というわけで、シリーズ記事「取捨選択」の第4弾ということで、6月の1ヶ月の間に止めたこと、手放したものを書き出してみる。(なお、従来の「○○編」というくくりは面倒なので止めた。これも取捨選択の一つだ。)

 

 

(1)Fitbit Charge3

6月の途中から使用を中止。欲しいと言う同僚がいたので、まだ半年しか使っていないが購入価格の半値以下で売却した。止めた直接の理由は、バンドの色が気にくわなかったこと。交換用バンドもぱっとしたのが見つからなかった。でももっと大きな理由は、Fitbitを常に左腕につけているせいで腕時計を使う機会が全くなくなってしまったことへの不満だった。2017年1月に買った前機種Charge2も含めて2年半毎日24時間身につけていたものが消滅したことで、未だにスースーする違和感は残っているが、代わりに腕時計をつける楽しみが復活した。それは非常によかったと思う。運動量の計測、睡眠時間把握のツールがなくなってしまったのは若干不便ではあるが、特段支障はない。そもそも、それは別に機械で記録・管理しなくても、実際に運動して、しっかり眠れば済む話である。将来的に、Fitbitのような機能を搭載したG-SHOCKやオシアナスが登場すれば、購入を検討することもあるかもしれないが、ただそれだと24時間装着することにはなじまないだろう。今の結論としては、腕時計タイプのライフロガーは自分にはもういらない、ということだ。

 

 

(2)コンパクトデジカメ DSC-HX10V

2012年に購入したソニーのデジカメを売却した。買値の1割程度だったが、7年使い込んだ中古品だから、妥当な水準だろう。ドイツ研修にも連れて行った相棒というべき存在で、古くなっても使い勝手のよさは全く衰えていなかった。ただ、このデジカメが便利すぎるせいで、2014年に買った一眼レフが完全に置物状態になっていたので、一眼の使用頻度を高めるために退場してもらうことにした。非常に思い入れはあったが、だからといって箱に入れてしまっておいても陳腐化が進む一方なので、手放すことにした。

 

 

(3)ガラケー

そして昨日をもってドコモのガラケーを解約した。高校生になった2003年からドコモを16年間続けてきたが、これで完全に縁が切れた。(まあ、dポイント(dカード)は今後も使うことになるが。)直接のきっかけは、1ヶ月前に夫婦げんかで妻に折りたたみケータイを真っ二つに破壊され使用不能になったことだったが、その後1ヶ月ガラケーなしで生活してみて特段問題はなかったし、2台持ちのメリットも感じられなくなっていたので、思い切って解約した。これにより、16年間使ってきたケータイ番号も消滅。解約後に試しに電話をかけてみたら、「この番号は現在使われておりません」という自動音声が流れてちょっと寂しい思いがした。思い入れはあったが、昔の友人から電話がかかってくることはないし、今付き合いのある友人知人とはほとんどLINEでやりとりしているし、何より個人情報が名簿業者に流れていて勧誘の電話がかかってくるのに嫌気が差していたので、手放すのが妥当だと判断した。

 

 

近況報告は以上。これからも思い切った取捨選択を進めていきたい。

 

(40分)

願望

思い切り運動したい。体を動かして思い切り汗をかいて、ぼろぼろのくたくたになった後で、シャワーを浴びてすっきりしたい…。今の自分に一つだけわがままが許されるなら、それだけを望む。自転車でも、バドミントンでも、ランニングでも何でもいいから、とにかくスポーツがしたい。週1回、1時間だけで構わない。ただそれだけで、欲求不満の全ては解消される。

山菜採り:2019/5/18

今朝、というか、つい今しがた、実家の近くの山で山菜採りをしてきた。同僚のおじさんと2人で朝5時に待ち合わせをして行ったのだが、当初の目的地だった山の奥のほうの場所が冬季通行止めで行けなかったので、急きょ別の場所に変更。ワラビやウドの芽を採取した。雪解け直後を狙っていた当初の場所より標高が低く、時期的に遅いのであまり採れなかったのだが、それでも夕飯1回分のおかずにするには足りるくらいは採れた。帰りに実家に寄って山菜を預け、家族に調理を依頼。夕方にはウドの芽が天ぷらに化けているだろうから、また受け取りに行くつもりでいる。当初の当てが外れてお目当ての山菜を採り損ねたおじさんには申し訳なかったが、お互いまた来年のリベンジを誓ったので、次回はもっと大漁を目指したいと思う。もちろん、全て採らずに他の人のために残しておく、というルールは守った上での話なのは言うまでもない。


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(10分)

年休取得義務化(達成)

労働基準法の改正に伴い、2019年4月から、年間5日以上の年次有給休暇(年休)の取得が義務化された。対象は「法定の年次有給休暇付与日数が10日以上の全ての労働者」となっていて、基本的には常勤で1年以上働いている人は全員これに該当すると考えて間違いはないだろう。当然自分も該当するし、自分の職場でも「年休を5日以上取ること」「年休取得計画表を作成・提出すること」を求められている。

 

www.mhlw.go.jp

 

自分も計画表を作ったし、6月までに5日分取得する予定だったのだが、予定より早く今日の時点でこの目標を達成することができた。その理由は、子供の発熱で今日の午後から半日休を取ったため。自分はこれにより、年休が付与される1月から起算して、1日休と半日休の通算の取得日数が5日に達した。実は同様の理由で、昨日も午前半日取得しており、大型連休前最終日も午後休を取ったほか、4月中にも複数回年休を取っていたので、4月からの1ヶ月で瞬く間に消化したというのが実情である。時間休も通算1日分取得しているが、1時間単位の時間休は労基法に規定がなく、個別の労使協定で定めることで認められるものなので、「年5日」の対象外だ。そもそも時間休は、労働者に十分な休養を取らせ、ゆとりを持った生活ができるようにするという有給休暇の趣旨にそぐわないため、年間5日分までに制限されている。そういうわけで、制度開始早々、自分はノルマ(という言い方も、法の趣旨にそぐわないが)を達成したし、今後も子供の急病でガンガン消化することになると思う。今までずっと年休を消化できずに、繰り越せない分を無駄にしてきたので、理由はどうあれ消化できるのは非常にいいことだと感じている。子供の発熱は偶発的かつ不可避なものだし、幸い大事にも至っていない。ただし、休んだ分の仕事のしわ寄せは当然生じるので(今は事実上後回しでやりすごしているだけ)、今後、担当業務に習熟して、どれだけ能率を上げていけるかが問われることになるだろう。労働時間の長さではなく、扱った仕事の量や成果に基づく労働密度の高さで評価する考え方を定着させる契機になれば、真の意味で働き方改革にも資するというものだろう。ただし、職員の半数が50代という今の職場の状態を鑑みて、そうした考え方に転換していく可能性は万に一つもなさそうなのが残念なところだ。

 

(30分)

 

 

<2019/05/10追記>

もっとも、年5日が義務化されるのは、改正法の施行以降に最初に年10日以上の年次有給休暇を付与する日(基準日)からなので、基準日が1月1日である自分の場合は、厳密には来年1月以降に改正法の対象となると思われる。とはいえ、少なくとも今年中はもうこのことを意識しなくてよいという意味では、ノルマ達成と捉えてよいだろう。

プライバシーの消失

自分には妻に対してプライバシーを主張する権利がない、といったら驚かれるだろうか。自分の個人情報・・・日記、手帳、写真、人間関係等は、全て妻のチェック対象となっており、ケータイやスマホの中身も、妻が好きなときに自由に閲覧できる状態に保たれているのである。スマホは画面ロックをかけてあるが、自分の手元にあるときは自動で解除される特殊な設定になっており、家にいるときはその状態から妻が勝手に閲覧できるという訳だ。このブログも、妻のスマホチェックの際に「はてなブログ」のアプリを操作されたことをきっかけに、随分と前から妻の知るところとなっている。これらを妻に見せることを拒むのは、実態はどうあれ、外形として、見られて困るような何かがある、ということを意味することになってしまう。だから、いかなる場合でも抵抗は厳禁である。妻と一緒にいるときにケータイ、スマホを理由もなく操作することも、何か秘密でもあるのかとイメージさせる恐れがあるほか、家族と過ごすよりスマホいじりのほうが大事なのかという誤解を招く懸念もあるため、同様に厳禁であり、特にアパートでは基本的にスマホは使わないことにしている。

 

 

つまり、自分は妻に対して一切の秘密は持てないし、秘密が必要になるような状況、説明のつかないはそもそも作ってはならない状況下に置かれているのである。一方で、妻のプライバシー権は厳重に確保されており、自分が妻のスマホをいじるなどということは言語道断とされている。また、妻が自分と一緒にいるときにスマホをいじることは何ら問題とはならないし、言動から察するに某無料マンガアプリを相当長時間利用しているようだが、仮にそれを指摘したところで妻の不興を買う以外の効果はない。

 

 

一見すると理不尽にも思えるかもしれないし、人によっては「夫にも人権を!」と抵抗したくなることがあるかもしれない。だが自分は、この状況に対して不満はない。もちろん、何でもかんでも見られるのは、決して自らすすんで作った状況ではないし、勘違いで誤解されることもあるから「はい喜んで!」という気分ではないことがあるのも事実だが、それを憤慨することは決してない。なぜなら、昔から「お天道様が見ている」と思って、ここにいない第三者を意識して行動をしてきたし、記録も誰かに読まれることをある程度想定して作ってきたからだ。その行動原則に沿っている限り、「誰にも知られてはならない」という後ろめたい感情を伴う行動は起きることはない。だから、仮に妻以外の誰かが同じように自分の個人情報をのぞいてきたとしても、多少の恥ずかしさこそあれど、秘匿しなければならないようなことはまずないと言える。だからこそ、このブログに赤裸々に、かつ堂々と、これまで様々なことを書き残すことができたのだ。こういう考え方が、自分の人生を貫く軸としてこれまで積み重ねられ、継続されてきたということは、自分にとって一つの財産といっても過言ではないだろう。

 

 

とはいえ、おそらくどこの家庭も、状況としては似たようなものなのではないだろうか。そして、そこで中途半端に秘密を作ろうとしたりするから、色んなトラブルに発展するのではないだろうか。妻をお天道様だと思っていれば、隠そうとすることの無意味さ、不可能さは容易に理解できると思うのだが。世の中の旦那さんたちが、プライバシーを消失することによるある種の「心の自由」を享受できるようになって欲しいと、勝手ながら願っている。

 

(50分)

値千金

昨日まで、二泊三日で妻の実家に滞在してきた。その間、妻の実家の家族と一緒に買い物に行ったり、子供と遊んだり、みんなで外食に行ったりして過ごした。子供が生まれて以降、妻の実家の家族とは、自分の実家の家族よりよっぽど長く一緒に過ごしている。だから、自分も特段、言葉や行動に気を遣ったりはしていないし、逆にお客さん的におもてなしされて気を遣われたりする心配もないので、滞在中も普段通りリラックスして過ごしていた。1日が子供中心のスケジュールという意味でも、アパートで過ごす休日とあまり変わらなかった。

 

それからしてみれば、今日は打って変わって、非常に特別な休日だった。妻と子供を実家に残して、昨夜のうちに自分だけ一足早くアパートに帰宅したため、今日は丸1日フリーに使えたからだ。しかも、のど風邪はほぼ完治したので、体調もかなりいい。こんな休日は、年に1回あるかないかの非常に貴重な存在であり、自分にとっては10万円くらいの価値がある。一時も無駄にしてはなるまいと思って、数日前から頭の中にTO DOリストを作っていたこともあり、今日は朝早くからテキパキとあちこち動き回った。一つ一つは説明しないが、結果的に、大小合わせて十数件の用事を済ませることができ、満足いく1日を過ごせた。妻と妻の実家の家族には感謝しているし、明日からまた家事に育児に頑張ろうという前向きさもチャージできたので、非常によかったと思う。

 

 

おそらく、妻にとっても同じように、こうした休日は必要なのではないだろうか。お互いに年に何日か、夫婦の片方が家事育児を全部受け持つことで、相手にフリーの休日をプレゼントしてみるというのも、夫婦関係を円滑にするために重要なのではないかと、今日の経験から感じている。受け持つほうは大変ではあるが、メリハリをつけることのメリットは、一時的な負担を上回る効果を持つと思われる。自分としては、妻がリフレッシュしてご機嫌で帰ってきてくれるなら、それくらいの負担は全然苦にならないし、そもそも普段からしているので負担とも感じない。明日、妻が帰ってきたら、様子を見つつこのプランを慎重に提案してみようと思う。

 

(30分)

平成とネット

4月1日に新元号が発表されてからというもの、「平成最後の~」とか、「祝令和~」みたいなフレーズを新聞やテレビ、広告の類いでやたらと目にするが、それとは対照的に、自分の周りでは改元にまつわる話をしている人は全くといっていいほど見かけない。たぶん、みんな毎日の仕事や生活のことでいっぱいいっぱいで、書類の年号表記くらいでしか直接関係なさそうな改元という出来事にしみじみと思いを至すような余裕がないのだろうと思う。自分はというと、余裕がないのはいつものことながら、かといって改元に無関心な訳でもないのだが、育児をしていると毎日が非日常であり、家庭は戦場なので、昨日おとといのことさえ記憶がない。したがって「1日1日が新世紀」みたいな感覚で生きているので、数十年スパンという長すぎる区切りに頭がついていかないという、ただそれだけのことである。改元という画期自体にはあまり実感や意味を感じないが、それでも天皇の代替わりという面においては、大いに関心を抱いてきたし、日本と日本国民統合の象徴という役割を模索しながら体現してきた現在の天皇陛下には、深い尊敬と親しみの念を感じて止まない。

 

 

さて、今夜は、昨日放送された「NHKスペシャル 平成史(8)情報革命 ふたりの軌跡~ネットは何を変えたか」という番組を見た。この中でスポットを当てられた人物は、ヤフーを日本一のインターネットサービスに押し上げた井上雅博氏と、画期的なファイル共有ソフトウィニーを開発した金子勇氏の二人。井上氏のことは名前を聞いたことがあるくらいだったが、金子氏は開発したソフトが著作権法違反幇助の疑いで逮捕されたことなどをある程度知っていたので、すでに両氏とも死去していたと知ってショックを受けた。しかも金子氏の死去は、最高裁で無罪判決が確定してまもなくのことだったと知り、二重に衝撃的だった。番組を見ていて、またネットの発展とともに歩んできた自分の人生と重ね合わせて、平成という時代はネット抜きには語れないと強く実感した。社会や産業の構造や、人々の生活スタイル、ものの考え方・・・ありとあらゆるものが、ネットが当たり前に存在し、いつでも誰でもアクセスできるという前提で動いている。こんな世界を、30年前に具体的に想定していたのは、攻殻機動隊を描いた士郎正宗くらいなものだろう。しかも、攻殻ではSFとして描かれていたネット社会は、今や日常となって久しい。ネットという「概念」を、正しいか誤解しているかはさておき、誰もが認知しているということ自体が、驚くべきことだとつくづく思う。誰もが世界中のあらゆる情報にアクセスでき、個人個人が世界に向けて情報の発信者になれるというのは、従来の仕組みや考え方を根底からひっくり返す革命的な出来事だった。この変化は不可逆的だし、この便利さは決して手放せるものではない。だからこそ、ネットという技術を本当に人類の進歩のために活かせるかどうか、より高度な文明を築くために使いこなせるかどうかということが、これからより一層試されることになるのだと思う。人々がネットを、単なる即物的な娯楽や、暇つぶしや、虚偽の情報の流布のための道具として使うに過ぎないのか、それとも、知の結集や、SOSの素早く正確な伝達や、社会問題の克服のために活かすのか。ネットがこれだけ巨大な存在となり、社会にも個人にも不可欠な存在となった中で、「何のためにネットを使うのか」という個人の意思と知恵と良識こそが、ネットリテラシーの核心として本質的な意味を持ち、これからの社会の行く末を決めるカギとなるのではないかと自分は思っている。ネット社会が、令和時代に光をもたらすものであって欲しいと願って止まない。

 

 

そんな自分が明日~明後日の改元のタイミングにどこで何をしているかというと、おそらく妻の実家で寝ていることだろう。時代はどうあれ、自分はただ、家庭の平和を最優先に奮闘するのみだ。

 

(90分)