センター2014

今日は土曜日だったが、センター試験用務のため出勤した。センター試験は附属学校以外の全教職員が総動員される一大イベントなので、自分も毎年出勤していて、今回で4回目になる。昨年は土日とも勤務だったが、今年は土曜1日だけだった。世の中のほとんどの人は一生に一回しか遭遇することのない決戦の場(?)であり、真面目に勉強していれば当然それなりの緊張感を伴うものだが、大学に勤務していると毎年の恒例行事になるので、受験生ほどの張り詰めた面持ちではない。入試課の担当者や管理職を除く大半の職員は落ち着いて特別な淡々と業務に当たることになる。自分もそうした態度で割り当てられた担当業務に当たり、19時過ぎに今日の用務は終了。特にトラブルもなく無事終わったので、ほっと胸をなでおろした。その帰り道に、回転ずしに寄って9皿を平らげたのだが、これもまた入試後には恒例の「儀式」だった。


自分自身が高校生としてセンター試験を受験したのは、もう8年も前のことになる。当時は「それなりに」勉強して全体で7割台の得点だったと記憶しているが、今になって思うのは、もっと「がむしゃらに」勉強してもよかったんじゃないかということだ。政治経済や現代文などの文系科目では高い得点を稼いだ一方で、数学や生物といった理系科目はひどい有り様だった。特に、生物はほとんど勉強していなかった。そもそも受験勉強そのものに、積極的な「やる気」はなかったのだ。大学生になって何をしようという目的意識もなく、志望校に対する思い入れも皆無だったのだから、勉強に身が入らなかったのはある意味当然だったと言える。しかし、例え勉強する「目的・理由」を明確に見い出せなかったとしても、あのとき自分がすべきだったのはやはり「一生懸命に勉強すること」だったと思う。意味の分からなかった数学や、現代語とは似ても似つかない外国語のような古文も、今はそのおもしろさや有用性が理解できるし、とっさに数を求めたくなったときや短歌を目にしたときなど、もっと知識があったらよかったのになと感じる場面が日常生活においても少なくない。生物や地学、地理などは、純粋に知的好奇心をかき立てられてならない分野である。英語に至っては今やビジネスの世界で最も重視される実学の一つだ。あのときは何でしなければならないのかと嫌気がさしていた勉強も、人生という長いスパンで考えれば何一つ無駄な物はなかったし、頭がまだ抜群の吸収力と柔軟性を保っていた高校生のときに勉強していれば、今同じことをするよりも何倍も効率よく頭に情報を定着させることが出来た。そして何より、遊びたい気持ちや逃げ出したい気持ちを我慢して勉強に打ち込むという行為が、人生において最も大きな財産となる「強い精神力」を鍛錬する機会として極めて重要な意味を持っていた。勉強に対して背を向けてしまった当時の自分の「甘さ」は、今の自分の弱さにそのまま結び付いている。いくら志望校の大学に浪人せず入り、留年せず卒業したとはいえ、勉強に存分に打ち込めるという恵まれた時間を、青春らしいことをするでもなく、部活をするでもなく、ただ単に時の流れるままに漫然と過ごしまった自分の高校時代と大学受験は、この意味において成功したといえるものではなかったのかもしれない。だから、今の高校生には、「意味は後から付いてくるから、脇目を振らず勉強や今しか出来ないことに打ち込め」と声を大にして言いたい。きっと、社会で働いている多くの「元高校生」も自分と同じ意見だと思うから。

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