最近の若者

自分は今23歳と2カ月で、平均年齢45歳の日本社会からすれば相対的にも絶対的にも「若者」の一人ということになるのであろうが、自分からすると近頃の若者の事情というのはさっぱり分からない。どういうことをしているのか、何に興味があるのか、何を考えているのか、到底分かるものではない。若者であるはずの自分自身でさえ若者への理解が及んでないのは、自分が同年代との交流が少なく、ネット社会とも縁を切った世間知らずであることと同時に、若者の価値観が多様化していて、「最近の若者は・・・」とひとくくりにすることが難しくなったことが原因ではないかと思われる。


そんな無知な自分が、若者について知る手段としているのが、日経新聞の若者特集やダイヤモンドオンラインの記事である。ツイッターが流行っているのは、返信が半ば義務と化しているmixiと違って、反応するもしないも自由な「ゆるさ」が受けているからだとか、バレンタインデーに女性同士でチョコを贈り合う習慣が広がっているだとか、ゆとり世代は安定志向で消費より貯蓄が好きだとか、それからNPOに就職したがるとか、農業に前向きとか、他にも色々あったが、毎回違った例が登場するので正直言ってひとつひとつの記事のことはもはやよく覚えていない。それくらい最近の若者は多種多様で、正体が掴みづらくなっているということなのだろう。


マーケティングをする企業の側からすれば、これほど厄介なことあるまい。考え方や消費性向が一様ではないということは、もはや一昔のように、一つの財やサービスで若者全体の心に火をつけてブームを煽り大いに消費させるようなことは難しいということを意味するからだ。近年の消費不振とデフレは、所得水準の低下と価値観の多様化がセットになって起こったものではないかと思っている。企業側には申し訳ないが、一個人としては、これは若者が消費者として賢明になった証拠であり、ひいては社会の健全化の兆しでもあると見ている。そもそも全員が企業の宣伝に煽動されて一斉に同じ消費活動をすることのほうが異常だったのだ。今冷静に考えてみると、なぜ「だんご3兄弟」のCDがあれほど売れたのか(ブームになった1999年当時は自分も欲しかったが結局手に入らなかった)は理解しかねる。国民が企業とマスコミ主導のブームに何度となく繰り返し乗せられてきたことで、戦後の大量生産・大量消費・大量廃棄という構造が拡大再生産され、多くの資源とエネルギーを浪費して、現在の環境破壊を招いたのである。ブームが過ぎれば一切忘れ去ってしまうような商品は、そもそも必要性がないものだったということだ。必要性や希少性の有無を適切に見極め、自らがその質と価値を認めたものだけを消費するのが現代の若者の一側面だとすれば、そうした身の丈にあった消費はとても合理的かつ経済的であり、消費者の本来あるべき姿であると感じる。こうした賢明な若者に合わせて、逆に企業の側がどうにか消費してもらおうと、多種多様な財とサービスを生み出してくるとすれば、それは市場が提供する商品の幅が広がることを意味し、社会はより便利になると考えられる。一消費者としては、それは喜ばしいことだ。社会の存続にとっても、多様な考え方を持った人材の存在は、大きな支えとなる。全員が一つの主義に染められてしまうことの危険性は、過去の大戦の惨禍が物語っているし、多様な価値観が併存したほうが何かと面白いというものだ。


時代が変われば、若者も変わる。いつの時代も若者は年寄りから理解されない。しかしだからこそ、既存とは違う価値観を武器に新しい時代を切り拓くことができる。10年後、20年後、自分が正真正銘若者ではなくなった時、自分はきっと今書いたことなんかすっかり忘れて、年寄りの一員として「全く最近の若者は・・・」と口にすることだろう。しかしそれでいいのだ。若者が自分には理解できないような新しさを持っていなかったら、今の自分と同じような価値観しかもっていなかったら、彼らを「若者」と呼ぶことはできないだろう。そんな状態になってしまったときこそ、日本は本当にお終いである。耳目を集めるような多種多様な「最近の若者」が、今後も新聞やネットの記事で取り上げられることを願ってやまない。

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