鬼気

「いやぁ、すごいな、これは。実に読み応えがある。よくこれだけのものを書き残したものだ」と思った。自分が昔書いていたブログを、おそらく1年以上ぶりに読み返してみての感想である。


それを書いた当時、大学1〜3年生のころは、環境的に色々と問題を抱えていたこともあるし、やっぱり若かったからかな、考えていていること、感じていることが今とはかなり違っている。ものの見方が斜に構えてるというか、オブラートに包んでないというか、極端で鋭角というか、それでいてたまにしんみりさせられもして。すごく色んなものが見えてくる。記事によっては狂気じみたものすら感じられるし、これ書いてる時、精神的にちょっと、いやかなり危なかったんじゃないか、と読んでいて自分で自分のことが怖くなったものも中にはあったほどだ。でも、そんな「ぶっとんでる」記事が10人以上から評価される一番人気の記事だったりもするのだから、不思議なものだ。その記事の持つ異様かつ強烈なエネルギーが他の人にもどーんと衝撃を与えたのではないかと思われる。それだけの溢れるエネルギーを持った記事というのは、書こうと思って書けるものではない。自分の中で抑えきれなくなった強い感情があって、それを心の赴くままに、一気に自分の中からはき出したからこそ、そうした記事が生まれたのである。そう、「生まれた」のだ。今は、言葉を考えて考えて選んで、慎重に記事を「作って」いる。毎日書く以上は、そういうスタイルにならざるを得ないところがあるが、やっぱり言葉というのは、心の中から自然と生まれ出でてくるものの中にこそ、本当に価値あるものが存在するのではないかと思っている。そういう意味では、昔書かれた、流れるような鬼気迫る記事の中には、過去のありのままの自分の姿が、よく映し出されていると感じられるのである。これに比べると、今の自分はずい分丸くなった、あるいは臆病になったというふうに見える。昔の自分を見るというのは、やや恥ずかしくもあるが、とても趣深い行為である。ブログの中に自分の分身を残しておいた過去の自分の賢明な判断に敬意を表したい。


ただ、そこに書かれた内容はあまりにも赤裸々であるので、公衆の面前に触れる状態にしておくのは好ましくない部分も少なくなかった。そこで急きょ、一般への公開をやめることに決め、パスワードをかけて自分しか見られないようにした。情報管理の徹底が叫ばれる昨今である。これは自然な措置であろう。最後の更新は去年の10月末だったから、更新を期待していた人というのもおるまいし、見られなくなったからといって特に困られることもないはずだ。今度はこのブログに「ほとばしる何か」を残していきたいと思う。

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