マツダ

自分で車を所有するようになって、約3ヶ月がたった。最初のころは一人でただ運転するだけでも何となく気が張ったものだったが、今ではすっかり運転にも慣れ、アクセラの車体感覚も修得して、たちの悪いことに地球環境を破壊している罪悪感さえ希薄になっている状態だ。それゆえに、ふとした注意不足で事故を起こしたり、また車庫に擦ったりしないか不安でもある。数年前、教習所で初めて車を運転したときには、一つ一つの操作がもうおっかなびっくりといった具合で、教官が同時にいくつもの操作や確認を求めてくると、冗談ではなく本当に頭が真っ白になってしまったものだった。あのころは、「注意散漫で処理能力の低い自分にはこんなのを運転するのは無理だ。自分は車に乗るべき人間ではないのだ」なんてあまりに極端なことを思っていたものだった。だが人間というのは、いざやってみれば大抵のことは出来るもので、自分も普通の人同様に、事故を起こすことへの恐怖心を都合よく忘れて(「まさか自分が事故など起こすまい」といった根拠のない楽観的な確信を、心理学では「コントロール幻想」という)、毎日平然と車に乗っている。入梅したこともあって、自転車ツーキニストを目指すモチベーションはちっとも上がらないまま、月日は流れつつある。車内で毎日2回、音楽を聴くという楽しみは出来たが、同じ道を同じように走って通勤するのにはすでにもう飽きてきているし、相変わらず車のことはよく分からないし興味もわかないので、やっぱり地方の人間にとって車はただ「足」という存在でしかないのだなという認識は一層深まるばかりである。土日は家でだらだらしているので、車を得たから特別外出するようになったという変化は見られない。何度か車で遠出もしたが、それはあくまで例外である。


さて、先週のことだが、先輩と雑談していた際、先輩の口から「今度車を買いたいと思って探しているのだが」という話が出た。外車を買うつもりらしいのだが、どうやらそれをためらっているふうだった。何でかと思ったら、自分が乗るアクセラとデザインが似ているからだという。そういえば、先日会った際にSも同じようなことを言っていた。マツダがデザインをパクったとか何とか。そのときは挑発的な物言いだったので、少し憤慨してしまったが、先輩が言うからには実際そうなのかもしれない。自分自身の、自分の車に対する評価を下げたくないので、その件について詳細を聴いたり、調べようとしたりは一切しなかったが、一方でマツダのことを擁護する立場でもないし、メーカー名で選んだわけでもなかったので、その場では「やっぱりマツダがパクったんですかね」と思ったことをそのまま口にしたのだった。ただ正直言って車なんてのは、これまでにもう数限りない種類が世の中に出たわけで、車輪4つでガソリンエンジンを積んでいるという基本部分がほぼ全ての車に共通している以上、携帯よろしくデザインなんて大同小異である。角ばってるか丸っこいか、出っ張ってるか引っ込んでるか、屋根があるかないか、でかいか小さいか、色が派手か地味か、その程度の差異でしかない。ボンネットのない電気自動車とか、宙に浮く車でも出ない限り、もうこれ以上斬新なデザインの生まれる余地などないと思うので、全ての車は何らかの要素において、他の車と相互に似通った部分を有しているのは必然と言えなくもない。同じマツダ車ならその傾向は一層顕著で、アテンザアクセラの違いは正面からぱっと見ただけではほとんど見分けられないくらいだ(ただ背後を見れば、アテンザは排気筒が2本あることで識別できる)。今日たまたま本屋で見かけた新型プレマシーの正面から見た「顔」も、アクセラをちょっとブサイクにしただけでほとんど同じだ(ただ車体全体ではかなり違うが)。先輩は、その外車を買うと、アクセラのまねをしたみたいに思われそうだから気が引けるし、でもやっぱり日本車より外車が欲しいというので、困った様子だったが、そんなの気にしないで、何でもいいから好きなのを買ってしまえばいいのに、なんて思ったのだった。マツダはその外車のデザインをパクったのかもしれないが、その外車だってマツダのデザインにインスピレーションを受けたことがあるかもしれない。それで結果的にお互いの製品をブラッシュアップしあうことになるなら、漫画家の卵が同人誌を描くようなのと同じことで、そんなに非難するいわれもないだろうし、そもそも大企業による寡占市場である自動車市場において、各商品に明確な差異があると考える時点でナンセンスであるともいえる。結局、機能が同じなら、最後は好きなデザインのを素直に選べばいいじゃないか、と自分はやっぱり思うけどね。

(75分)