if:冤罪

21時半を過ぎて寒い中往復30分チャリを漕いで原信まで買い物をしに行った理由はといえば、ビールのつまみになりそうなものを半額になった商品の中から買ってこようということでしかなかった。それで焼き鳥3本セットを買って、前回Sと飲んだ際に余ったエビスビール500ml缶1本を開けたのだった。


それを飲みながら見ていたのは、NHK教育の「裁判員へ・元死刑囚・免田栄の旅」という番組だった。別に見ようと思ってつけたわけではない。これ以外にろくな番組がやっていなかったからチャンネルを合わせたに過ぎなかった。だが思いがけず、最後まで真剣に見入ってしまったのだった。


番組の内容は、冤罪事件「免田事件」で知られる元死刑囚、免田栄さんが、自分の受けた警察からの取調べや裁判を振り返り、また足利事件の菅谷さんといった他の冤罪事件で犯人にされた人や今も再審が認められず拘置所にいる人たちと会いながら、これから裁判員となりうる我々に対して、警察と司法の犯してきた過ちを語るといった感じで、一つ一つの場面が非常に重い空気に満ちていた。自白を強要し、架空のストーリーを仕立て上げる警察、証人に台本通りの証言を練習させて事件の「真実」を語らせる検察、警察・検察の調書を鵜呑みにして判決を言い渡す裁判官、警察の情報をそのまま垂れ流し事件に火をつけるマスコミ、マスコミに踊らされて犯人を憎み、冤罪の可能性を考えもせず死刑制度の存続を支持する国民・・・。全員が、国民一人ひとりが冤罪事件の加害者だということを思い知らされ、身につまされた。そして、冤罪事件は特別な例外ではないのではないかという思いがよぎった。


自分がある日突然、まったく身に覚えのない事件の犯人にされ、逮捕されたらどうなるだろうか。世間は白い目をしてひたすら自分を非難し、家族は近所から迫害され、社会からは人間として扱われずやがては存在そのものを抹殺される。自分の言葉などまったく聞いてはもらえない。そして「犯罪者」というレッテルが一生付きまとう。とても冷酷で、背筋が凍りつくほど恐ろしい現実が待っていることだろう。そんな中で自分の無実を証明することなど、果たして出来るのだろうか。自分がマメにつけている記録などアリバイにはしてもらえないに違いないし、記録自体なかったことにされることだってありうる。そして長時間の取調べの中でだんだん精神が限界まで追い詰められていき、冷静な判断が出来ないまま誰かに作り上げられた自白を「自分がやりました」と語ってしまう。自分の人格を無視され、調書の中で犯人像に一致するような人間へと作り変えられていく。自分なら、FPSGTAをプレイしている暴力的な人間、人と会う機会が少なく部屋にいるの好きな鬱屈した社会性のない人間、犯罪を起こすべくして起こした人間みたいに仕立て上げられる。自分に関する全ての事実が、自分にとって都合の悪い、誤った方向へと解釈され、自分が犯人の人格に見合う人間であることの証拠とされるのだ。冤罪で捕まることの恐ろしさはそうして自分の内面までもがないがしろにされ、蹂躙されることにあるのではないだろうか。


冤罪で捕まり、人生の可能性を奪われる。それは恐ろしいことだ。しかしその上さらに死刑を言い渡されたら・・・。その恐怖と不条理さは想像を絶するものに違いない。免田さんも死刑判決を受け、拘置所で過ごしていた期間、その日執行される人が連れて行かれる朝の30分間は、毎日尋常ではない恐怖に襲われていたと語っていた。冤罪は自白が絶対視されていた過去の遺物だ、今は科学的に捜査するからありえない、なんてことは決してない。なぜなら捜査をするのは人間だからだ。人間は間違えるもの。思い込むもの。間違っていることを認めようとはしたがらないものだ。一人の人間ですらそうなのだから、組織や社会はもっとそうだ。一人ひとりの警察官は善良でも、警察という組織が善良でありえるとは限らない。いや思えない。どこかに必ず間違える余地が生じ、それが取り返しのつかない現実を招いてしまう。冤罪が0になることは有り得ないと言っても過言ではないのである。それゆえこの番組を見て一番強く思ったのは、「たとえ100人に1人でも冤罪で犯人にされる人がいる可能性がある以上、死刑は行ってはならない」ということだった。99人の死刑囚が真犯人であり全く反省の色もなく更生しようもない極悪人であったとしても、1人でも無実の死刑囚が紛れ込んでいるのであれば、死刑制度そのものを廃止しなくてはならない。そう確信した。自分はこの番組を見て、死刑制度廃止論者になったのだった。犯罪者の命の価値とか、被害者の復讐感情とか、そんなのは乱暴な話だがどうでもいい。無実の人間が決して殺されてはならないのは絶対の正義であり、殺される可能性を排除し得ない制度である以上、死刑を行わないのが理に適っている。そして、自分は無実の罪で殺されたくはない。だから、死刑は行うべきではない。そういう考えである。おそらく死刑を支持する人たちは、司法の無謬性を信じていて、「まさか」という発想を普段しない人たちなのだろう。上記のようなことを一度でも考えていたら、自分個人の問題として捉えていたら、死刑賛成とはいえないはずだ。こういう観点からの議論が聴かれないのが、今の死刑存廃論議の問題点だと思う。


上記の論にはもちろん多分に問題点があろうし、被害者感情や犯罪抑止という観点を全く無視しているという批判も当てはまる。だが自分は自分の利益における合理性というのを、考えごとをする際の物差しとしているので、そうした結論に至ったに過ぎず、上記の論はあくまで自分本位にしかそもそも捉えていないということをご承知願いたい。たかがNHKの番組一本に影響されすぎだといわれればそれもごもっともだが、番組は自分の思考に火をつけたに過ぎず、業火の中で最終的に燃え残ったものは自分自身の考えだったと自分では思っている。とにかく、この番組はとても考えさせられる内容で、骨のあるドキュメンタリーだった。自分が裁判員になったらどういうふうに裁判に参加するか、最終的にどんな判断をするか、最後まで正気を保てるのか・・・。これから真剣に考えておく必要があると強く感じているところである。

(85分)