初心

どこもかしこも、桜が満開に咲いている。自宅の庭の桜の木はもちろん、通勤途中に見かける民家のものや、歩道の街路樹も満開で、ついつい眺めたくなってしまう。車で通り過ぎなければいけないのがもったいないと感じるほどだ。今年の開花は去年よりだいぶ早いので、今週末に高田公園の桜を見に行くころには、見ごろのピークを過ぎてしまっていることだろう。ただ、桜が咲いて春爛漫かといえば、そうでもない。ここ2日ほどは雨が降って気温が低く、今朝は寒さで目が覚めたほどだった。「先週土曜にノーマルタイヤに交換したのに、また雪が積もってしまった」・・・という内容の夢(前半は事実)を見たのも無理からぬことだった。実際、山のほうでは屋根に雪を積んだ車が下りてくるのが確認されているし、妙高山は久々に新たな雪化粧をしていた。


今日の仕事中、自分は大変恥ずかしい状態にあった。スラックスのベルトを付け忘れて出勤してしまっていたのである。上はYシャツにネクタイ、下はスラックスという服装で仕事ををしているのだが、10時くらいにふと自分の腰に手を当てて、ベルトをしていないことに気付いた後は、どうにも居心地が悪くて落ち着かなかった。まるで、「社会の窓」が閉じなくなったかのような気分で、席を立つのが恥ずかしくて仕方なかった。別にスラックスがずり落ちるとかいうことはなく、周りも気付いてはいなかっただろうし、気付かれたところでちょっと間抜けに映るだけのこだろうが、自分としてはそのみっともなさに我慢ならなかった。そのため、極力自席から立たないようにし、やむをえず立ち上がる時はネクタイでベルトのバックルがあるべき部分を覆うようにして、それがないという事実を隠すようにした。今になってみれば、そういった振舞いをしていたことのほうが、よっぽど滑稽で子ども染みた行為だったと思う。他部署には行かなかったし、コピーを取りに印刷室に行く回数も普段と比べてずっと少なかった。定時を過ぎた後は、上司が残っているのを尻目に一目散に退勤し、18時半前には帰宅。そこでようやく安堵に包まれたのだった。


自分は、「年休を使わない代わりに超勤はしない」という主義で、一時的な繁忙期以外は定時でさっさと帰りたいと思っているし、自由時間を勉強などに充てるためにもそうすべきだと考えている。独逸でワークライフバランスについて学んでくる前からそういう考え方だったが、実際にはなかなか実践出来ていない。ほとんど毎日、周りの人たちが居残るのに合わせて必要もない残業をしている。仕事の時間は1日8時間で十分だ。上司の命令もないのに、残業する必要はない。本当に集中していればそれ以上働けないし、今の自分が真にやるべきことは、課せられた業務以外にもっとほかにもたくさんあるのだから。なのに、いつまでこんな残業が常態化した生産性の低い働き方を続けなければならないのか。今こそ信念を持って、「帰ります」と声高に自分の主義を主張すべきときなのではなかろうか。今の仕事は仕事の量の上限が決まっているし、1カ月単位で規則正しく締め切りが来るものなので、仕事を計画的にやりやすい。他の業務のように、急に差しこみで仕事を振られるようなことは多くない。例えば「今月は給与を2回出して」なんていうふうに急に仕事が倍増するようなことはまずない。だから、今日の仕事はここからここまでというふうにメドを付けながら、自分はやっているつもりだ。定時で帰る余裕はあるのに、あえて帰らない愚をなぜ続けるのだろう。


神経は使うが、一度ルールを覚えてしまえば頭はあまり使わない。忙しいが、ルーチンワークばかりで退屈。給与計算はそんな仕事だ。入社当時の志や緊張感や佳き習慣が徐々に失われ、気付けば、ただ昨日と同じことを繰り返す惰性の日々が続いてしまっている。社会人として成長するどころか、前よりダメになっているとさえ感じる。入社して丸3年。今の状態はまさに中弛みに他ならない。飲み会の幹事は積極的にやっているが、社会人として後輩の手本になるような姿勢を背中で示すことが出来ているかというと甚だ疑問だ。今一度初心に立ち返って、仕事への姿勢を見直し、自分を変革し鍛錬するため取り組みに力を入れ直すべきときなのだと思う。そのためにも、悪しき慣習にノーを突きつけ、自分の考える理想を追求する青臭さを、心の奥から引っ張り出してこなければいけないだろう。20代の折り返し地点を過ぎて早半年。同じ場所で無意味な足踏みを続けている時間的余裕など、もはやない。

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