FB 2008/12:図書館とモラル

2008/12/28(日)


自分はアパートでは勉強できないタチなので、勉強はいつも大学の図書館でやっています。
まあ今は実家に帰省中なので、弱い自分に鞭打ち家にこもりつつも何とか勉強してますが、レポートとかを片付けるためと思ってノートPCを持ち帰ったのがちょっと失敗だったかもしれません。
で、何の話かっていいますと、どうにも最近気になってしまうんですよね。
図書館で飲食している人が。
確かそこら中の壁に貼ってありますよね?「館内では飲食禁止」っていう張り紙が。
割と目に付くところに。
なのになぜでしょうかね、机の上に飲料の入ったペットボトルや紙パックを置いてる人が結構いるんですよね。
いやそりゃ、誰だって勉強してれば疲れますし、自分にも飲み物が飲みたくなる気持ちは分かりますよ。
それに飴玉を誰にも見えないようにこっそりなめるくらいなら、自分だって目をつぶります。
ですが、現状は残念ながら、ちょっと自分には看過できないものがあります。
そもそもダメと書いてあるのにもかかわらず飲むというのは如何なものでしょうかね。
周りに迷惑をかけていなければいいじゃないか、そういう意見も当然あるでしょうが、自分はこの「図書館で飲食」という行為について、2つの点から反対したいと思います。


まず一つ目は、飲食されると実際迷惑だということです。
飲食している人の多くは、割と「節度」を守って、音を立てたりにおいが広がったりしないようにしているように見えます。
一応、張り紙があることは意識しているようです。飲み物を飲んだらカバンにしまったりしています。
この程度なら実害はほとんどないといってもいいです。
しかしルール違反が常態化し、利用者の間で「公認」されてしまうと、マナーを守らない一部の人が必ず現れるものです。
マナーでは守られないことだからこそ、ルールが作られるのですから。
飲食禁止は有名無実だと分かって、ストローを口にくわえて「ズーズー」と音を立てちゃう「節度」のない人も中にはいます。実際見かけます。気になります。
まさに「割れ窓理論」っていうやつですよね。
取締りが徹底されていないと、小さな違反をきっかけにどんどん治安が悪化してしまうというあれです。
「飲食禁止なんてみんな守ってない」という空気が醸成されてしまうと、だんだん他のルールにもルーズになってしまい、会話を堂々とする人も出てきます。
聞こえないだろうと思っているのか、書架の間で話をしている人、かかってきた電話を受けてトイレに飛び込んで応答する人、実際よくいます。
特に後者など日常茶飯事ですね。トイレの入り口にもしっかり「電話は館内中に響きます」って張り紙してあるんですがね。
こうなるともう完全に迷惑です。
最初に破られたのが、飲食禁止だったのか会話禁止だったのかは鶏か卵かなので分かりませんが、小さな決まりも一旦破られると次第に大きな迷惑をもたらすようになります。
これが一つ目の理由です。


2つ目は、大人がルールを守らないと子どもに対して示しがつかないということです。
大学生というのは少なくとも半数は20歳以上なのですから、学生とはいえもう大人であるわけです。
少々飛躍した話のように思われてしまうかもしれませんが、大人がルールにルーズな態度を取ることは、子どもに規範意識を根付かせる面で悪影響を及ぼすのではないかと思うのです。
図書館で飲食してしまう人、その人がルール違反、マナー違反をするのは、何も図書館内でのみとは限らないでしょう。
大学構内で歩きタバコをするとか(これも今年度から禁止されたはずなんですが)、夜中にアパートでバカ騒ぎするとかいったことをしてしまうことだってあるのではないでしょうか。
そういう人たちが将来、教師とか、親とか、子どもと深く関わる立場になったとき、どうなるんでしょうか。
子どもの前ではああしなさい、こうしなさい、あれは守らなくちゃいけない、これも守らなくちゃいけないと指導するけれど、自分自身ではそれを守れない部分が出てくるという状態になるのは想像に容易いことです。
そんな大人を目にして、子どもはどう反応するでしょうか。
「こんな口ばっかりの大人にはなるもんか。僕はルールには厳しい人になるんだ」と思って、反面教師にしてくれるなら、その子は将来大物になりそうですが、それよりも「大人が守ってないなら、僕たちだって守る必要ないよな」と思ってしまうほうが自然な反応なのではないでしょうか。
ルールを守らない子に対して叱ったところで、「でも大人だって守ってないじゃん」と言われてしまったら、あなたはどう反論しますか?
これは中々難しいことです。
誰もがルールを守っていれば、「それが当たり前のことなんだよ。みんな守っているんだから」といえばいいですが、破っている人が存在する状況下でルールを守る必要性を説くとなると、複雑な説明になってしまいます。
ルールの意味や意図を考えることも大事なことではありますが、子どものうちはとにかくそういうものなんだと覚えさせ身に付けさせることのほうが重要ではないでしょうか。
そのためにはルール違反をする大人は障害となってしまいます。
ルールというものは、社会全体の安定と存続のために利となるから存在しているのであり、個人個人にとってもそれを守るメリットのほうが守らないときより大きいに違いありません。
そして子どものうちから規範意識を養っておいたほうが、その子が成長していく上で、生きていくうえで、助けとなることと思います。
大人がルールを守らず、子どもにその姿を見せることは社会全体にとっても損失をもたらすことになってしまうのではないでしょうか。
大学の図書館というごく限られた空間とはいえ、ルール違反が事実上許容されてしまうことは、そうしたことに繋がりうる危うさも秘めているのです。
教育学などを全くかじっておらず、実際に子どもと触れ合う機会にも乏しい自分の言葉では、合理性と説得力は弱いかもしれませんが、しかし自分はそのように思うのです。
これが二つ目の理由です。


考えてみればそもそも、小中学生のときは、遠足等の場合は除いて学校に弁当以外の食べ物を持ち込んだりすることは出来なかったはずですし、ましてや授業中に飲み物を飲んだりしたら怒られること必至だったはずです。
その当時は誰だってごく自然にそれを守ってましたよね。
そのとき出来たことが、図書館にいる間だけ我慢するということが、今は出来ないなんてそんなはずがありません。(水ならば入り口の給水器でいつでものめますし)
実際少しばかり飲食を我慢するなんてことは、そうたいしたことではないのです。


図書館を利用している人の大半は、飲食もせず、話をしたりもせず、ルールとマナーを守って静かに本を読んだり勉強したりしています。
だからこそ、小さな声でも話しているのが聞こえて気になってしまいますし、守らない一部の人の行為が大勢の人に迷惑をかけてしまいうるのです。
白い服ほど小さな汚れが目立つのと同じことなのです。
一人ひとりが、図書館におけるこの簡単な決まりを正しく守ることこそ、大学の気風と環境の向上に繋がり、結果としてこの大学内のみならず全ての人の利益に結びつくはずだと、自分は思う次第です。


(原典:HP)


*フラッシュバック 第3回*

過去に別のブログやHP等に書いた文章を再掲し、その内容に対して今の自分から一言意見や考察を加える「フラッシュバック(FB)」というシリーズを昨年の今頃にやっていたのだが、たった2回掲載しただけで途切れてしまっていた。これはもったいないことであった。ゲーム作品において過去の名作のリメイクがたびたび行われているように、文章においても時を越えて普遍的な価値を持つものを再度見直すのは重要なことであると思う。また、自分にまつわるあらゆる情報をブログに集約・蓄積し、外部記憶装置たる「第2の脳」として活用するという野望もある。その点で、FBシリーズを継続する価値は小さくない。そこで今回、もう一度このシリーズを再開することを決めた。今後は、月2回くらいの頻度で、本ブログに未掲載の過去の文章を「発掘」して掲載していきたいと思う。


さて、再開初回、通算3回目となる今回の記事は、以前自分が運営していた過去問HPに掲載していたものである。原題は「図書館論」で、図書館での問題を例に、学生のモラルの低下を懸念する内容となっている。言葉の接続(てにをは)やテーマと関係ない前置き部分等は一部修正したが、主張部分は当時のままに掲載している。読者に呼びかけたり煽ったりするような部分があるのが多少気にはなるが、それも含めて当時の自分を表現している要素の一つであると思うので残した。今後のシリーズでも同様の方針で転載するつもりなので、以降はこの説明は省略する。で、肝心の主張部分なのだが、至極筋の通ったことまっとうなことを言っていると思う。読んでいて我ながら、「確かになぁ」と納得させられてしまった。一部の学生の傍若無人な振舞いへの「怒り」がほとばしっているのも、図書館のヘビーユーザーだったがゆえのものであろう。文章中で最も注目すべきなのは、「大人は子どもの規範であらねばならない」ということを強く主張している点である。これはここ最近自分が感じていることとも重なる。当時は職業として教育に関わることになろうとは微塵も考えていなかったので門外漢として声を上げていたが、大学に勤めている今となっては、規範意識の問題は当事者として考えなければならなくなった。とても難しくどこまで行っても完成などない問題であるが、職業的な観点からも、一人の大人としても、子どもの規範足りうる人間でありたいという思いは、この文章を読み返して一層強くなった。それは例えば、食事の時に利き手と反対の手を食器に添えるとか、ティッシュで鼻をかむときは両手を使うとか、あくびをするときは手で口を隠すとか、学校の教科書で教わるようなことではない、親のしつけや見よう見まねで身につけるような習慣を、誰に見せても恥ずかしくないようなきちんとした振舞いとして無意識的に行えるようになることを意味する。食事の時に手を添えることは、昨日の「鈴木先生」のテーマだった。自分も小さいころから両親に何度となく指導されてきたことなので(「食器をちゃんと押さえないとひっくり返す」とか「手を机の下に隠しているのはみっともない」などと言われた)、多分習慣的に左手は添えていると思うのだが、ドラマを見た後となっては常に意識してしまうため自分では観察することが出来ない。自分が出来ているかいないか、気になるので、何日か経って忘れたころに、食事中にはっと思いだして左手の状態を確認できるような機会が訪れることを期待したい。こんなふうに規範意識が高まることは、自分にとっても、自分が他者に与えうる影響においても、悪いことではないと思うが、あまりに完璧主義的になってしまうと、自分の子どもなんて絶対に持てなくなりそうだ。自分にできないものを子どもに求めるのはご都合主義もいいところなので、お手本になりえない身では子どもなんか持つべきではないという思いがあるのである。そんなことを言ったら、誰ひとりとして親になどなれないので、どこかで妥協しなければならないのだが、今現在の自分は妥協できる水準にすら達していないと感じている。もっと、自分を高める努力が必要だ。


ルールやマナーは、大人になって頭や心がカチカチになったあとになって身につけようとしても容易に身に着くものではない。むしろ、大人になるにつれ悪知恵がつき、周りの悪い見本に感化されて悪化する一方であることのほうが多いように思うので、純粋で素直な子どものうちに出来るだけたくさんの「型」を身につけさせておかなければいけないと思う。大人になってから型を自分の意思で打ち破ることは可能だが、その逆は相当難しい。ルールやマナーには、長い歴史に裏打ちされた文化が体現されているものもある。モラルの低下は、日本人が培ってきた非言語的な文化が失われることにつながる恐れもあるのである。そうした危機意識を多くの大人が共有し、子どものことを真摯に考えてくれるようになることを切に願う。

(100分:6/12)