平和は自由より重い

以前の記事でも書いたとおり、フルタイム育児の休日には、少しでも自分の時間を作ろうと、スキマ時間を活用しようとしたり、ほかのことと並行して「ながら」でできることを模索したりしている。ただ、こうした努力をするには、自分自身の心に十分な「前向きさ」があることが条件になる。前向きさは、向上心と言い換えてもいい。波風のない凪の海のような、健全で落ち着いた精神状態が続くことで、前向きさは少しずつチャージされる。これこそが、自分時間を作ったり、早く帰るべく効率よく仕事に励んだりといった、何かにチャレンジするための最大の原動力となる。前向きさは、自分のアイデンティティを保ち、未来を描いて人間らしく生きるために欠かせない要素である。

 

だが、この前向きさというのは、人工的に作り出すことができない、希少資源のような存在でもある。自分の心の泉にじわじわと湧き出して、静かに静かに少しずつたまっていく清水のようなものだ。そして、その泉はたった一回の嵐に見舞われたが最後、真っ黒に染まり、使いものにならなくなることがあるほど、非常にはかなく失われやすい存在である。嵐で前向きさの泉が損われると、自分は未来への一切の希望を見失い、何も考えられなくなり、最終的にはタナトスに呼び寄せられるようになる。もう何もいらない、何もしたくない、何もかもがお仕舞いだ・・・そんなふうに思い詰めて、「Komm, süsser Tod」と唱えるようになってしまう。何もする気が起きないし、当然仕事に精が出せるはずもない。立っていることさえ辛く、息をすることだけで精一杯。こういう生命の危機に瀕する非常事態が、多いときで月数回も起きる。

 

この嵐というのは、いわゆる夫婦げんかのことである。いわゆる、と言ったのは、我が家の場合はけんかという双方向のやりとりの体をなさず、妻から自分への一方的な攻撃というパターンに限られるからだ。原因は自分の不注意だったり、家事育児のちょっとした手抜きだったりするのだが、それが例えどんな些細なことであれ、一旦妻の逆鱗に触れてしまうと、もう手に負えない状況になる。物理的かつ精神的に、烈火のごとき勢いで徹底的に糾弾され、挙げ句に一切の国交断絶を言い渡されることになる。そこに反論や弁解の余地はない。ただ、自分が悪かった、手遅れだったという後悔だけが残される。そうして貴重な前向きさは一切失われ、上述の精神状態に陥ることになる。

 

嵐は、自分の命懸けの外交努力の末に、1日から数日のうちに過ぎ去り、かくして平和な日々が戻る。妻の機嫌は平常時でさえ非常に繊細で予測が難しい。そのため非常時に過去の事例はあまり参考にならず、その都度最善策を手探りで模索するしかない。時間の経過で自然に解決することだけは絶対にありえないので、自らアクションを起こすことが必須となる。精神的なパワーがゼロの状態でそうした外交努力に粉骨砕身するのは並大抵の苦労ではなく、毎回、もう二度とこんなことは起きてはならないと猛省する。だが、時間の経過とともに、平和が「当たり前」になってくると、わずかな油断が生じ、一瞬の不注意が再びの嵐を招く。こんなことが、もう何百回と繰り返されてきた。

 

この問題は、つまるところ「平和」と「自由」のどちらを取るかということに集約されるのだと思う。平和を求めるならば、常に100%の注意とエネルギーを妻と家庭のことに注がないといけない。スキマ時間に自由を求めようとするような邪な気持ちがあれば、惨禍は再来する。一方で、自由への渇望は人間本来の欲求であり、自由はそれを求める闘争の賜物でもある。家事育児を普段がんばっているからこそ、ちょっとくらい息抜きもしたくなる。何とかして時間を作りたいからこそ手際よくやろうと努力するし、ほんの少しでも自由があれば、前向きさもより高まる。だが、両者のバランスを取ることは難しく、天秤はついつい自由の側に傾いてしまう。その結果は何度も述べたとおりだ。

 

となれば、自由の追求が命に関わる問題である以上、この二者択一では平和を取るしかない。自由がなくても前向きさはある程度回復するが、平和がないことには前向きさは一切生まれない。前向きさがなければ、生きることは不可能だ。ゆえに、圧倒的かつ絶対的に、平和は自由より重いのである。

 

平和のかけがえのなさと儚さを肝に銘じ、この平和を全力で守る。そのためなら、自分本位な自由など捨象して構わない。特に神経の集中が必要な土日祝日を迎える前に、必ずその覚悟を確かめることを、これからの習慣にしていきたい。

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